
聴いてもらえること、読んでもらえること
山小屋の朝は目覚めが早い。夕食のあとは、消灯も待たずに疲れた足と酒が眠りに誘う。2時すぎには、ごそごそと起きだすのが常だった。食堂やロビーの空いたところをさがして、昨夜の残りの酒瓶を手に座っていると、Aさんが待ってましたとカップを手にしてくるのが常だった。
仕事には厳しい人だった。「目ん玉」と陰口を言われても人情味があったという。が、新入社員にはトップのAさんとはそこまでのおつきあいはなかった。たまに食事を一緒にさせてもらっても、仕事のことからそれることはなかった。話題は深く、広くひろがるものだった。「目ん玉」をむいて自分の思いを話すのが、そのうちに待ち遠しくなるほどだった。
しばらくして社内異動があり、Aさんの話を聞く機会が離れた。
時が過ぎ、Aさんが仕事を辞したあとに会う機会があって山登りのお誘いをしてみた。行く、という。必要な服装と装備を簡単に記して送った。初めての山はしんどかったと思う。顔には出てたけれど一言も口には出さない人だった。
「山はいいねえ。自分の足で歩けはゴールに届くから」
彼らしかった。
早朝の山小屋。いっしょに登った会社関係のメンバーの何人かがぼちぼち集まってくる。残り酒をカップにAさんの話を目覚ましがわりに聴く。もう離れたから直接の仕事の話はない。時の話題を彼の独特の見方で語るが、仕事の話題が裏に流れているように聴こえる。
会社を辞したあとは話を聴いてもらえる人が少なくなる。山登りは彼にとって格好のはけ口だったかもしれない。でも、それを聴くのを楽しみに山に登り、朝早く起きる人もいた。
Aさんが亡くなって十数年たつ。わたしもその歳になった。経てきた時どきの自分の思いが離れることはない。聴いてもらえる人が少なくなっても、noteを読んでもらえる人は広がる。