去る者日々に疎し
キリスト教関係者の間で歴史上聖書に次いで最もよく読まれた書と言えば "The Imitation of Christ"(「キリストに倣いて」)です。15世紀初めに匿名で出版されましたが、その著者とみなされているドイツの思想家 Thomas à Kempis は、いろいろな格言を残していることでも有名です。”Out of sight, out of mind. The absent are always in the wrong.” とは、人の活動のリアルな現実における1つの教訓でしょうか。「会っていない人のことは忘れてしまう。そこにいない人は悪者にされてしまう。」といったことです。”Out of sight, out of mind”は、よく「去る者日々に疎し」と日本語訳されています。似たような意味であるかもしれないですが、ただ、「去る者日々に疎し」は、会議や宴会の場にいる・いないのレベルではないような深みを感じます。
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Thomas à Kempis よりももっと前、14世紀初頭、1330年頃、兼好法師が書いた「徒然草」、第三十段「人の亡きあとばかり」のなかほどに、その「去る者日々に疎し」が出てくる有名な一説があります。
年月経ても、つゆ忘るゝにはあらねど、去る者は日々に疎しと言へることなれば、さはいへど、その際ばかりは覚えぬにや、よしなし事いひて、うちも笑ひぬ。骸は気うとき山の中にをさめて、さるべき日ばかり詣でつゝ見れば、ほどなく、卒都婆も苔むし、木の葉降り埋づみて、夕べの嵐、夜の月のみぞ、こととふよすがなりける。
例によって私的超意訳します。名著ですので、たくさんの現代語訳が出ていると思われ、おそらくちょっとくらい違うかもしれませんが、ご容赦ください。
年月が経ったからと言って故人のことを全く忘れてしまうということはさすがにないとしても、「去者日以疎」というタイトルの古詩のとおり、忘れないといっても、亡くなった当時ほどは悲しく思わなくなるのか、故人について些末なことを言って笑ったりもする。遺骸は人里離れた山中におさめ、決まった忌日にだけ墓参に来るくらいなので、お墓も苔がはえ木の葉がかぶっている。夕方に吹いた強い風や、夜に光を照らすお月さまがお参りしてくれている。
ここで、去者日以疎は、中国の古詩からの引用です。Google などで検索すると、白居易の「白氏文集」(9世紀)が出典と書いてあるものがたくさんありますが、私が「白氏文集」の原文を全文サーチした限りでは、出てきませんでした。そのかわり、6世紀に編纂された「古詩十九首」の十四首に「去者日以疎」がありました。以下のリンクで、無料で原文が読めます。
書き下し文です。
去る者は日に以て疎く 生きる者は日に以て親しむ
郭門を出でて直視すれば 但だ丘と墳とを見るのみ
古墓は犁かれて田と爲り 松柏は摧かれて薪と爲る
白楊 悲風多く 蕭蕭として人を愁殺す
故里の閭に還らんと思い 帰らんと欲するも 道 因る無し
私的超意訳です。兼好法師の引用の趣旨は本当にぴったりで、よくこの詩の内容をふまえているのではないでしょうか。
亡くなった人たちのことは日に日に忘れてゆき、その代わり、生きている人たちと日に日に親しさを増していく。
城門を出て外を眺めわたすと、丘と墳墓が見える。
古いお墓は耕されて田になっており、お墓にあった松やヒノキの木は切り倒されて薪になっている。
ハコヤナギの木に悲しげな風が吹き付けており、無常を感じて胸がつまりそうだ。
故郷に帰りたいと思うのだが、そう思ったものの、どのようにして帰れるのか道がわからない。
「去る者日々に疎し」は、現代では、しばしば、遠距離恋愛や単身赴任の懸念事項のように言われることもあるようです。少なくとも、もともとは、「去る者」とは、亡くなった人のことを念頭に置いていたようです。
この古詩からも、徒然草の書きぶりからも、人の(過去についての)記憶の微妙さ、繊細さをうかがうことができます。忘れたくないという強い思いがあっても、あるいは、悲しくてたまらないような記憶があっても、時間によってその呪縛から解放され、また人は歩き始められる、といったところでしょうか。特に兼好法師がみごとに語っているように「まったく忘れてしまうのではなく、むしろ、冗談や軽口が言えるような存在」としての記憶にすりかわると考えるとよいのかもしれません。
また、そのように考えると、「去る者」は必ずしも、亡くなった人ではなくてもよいとも言えそうです。生きている人でも、仕事や生活をともにすることが困難な場合があるでしょう。犯罪にかかわった、騙された、裏切られた、過失であっても重大で容認できない相手の人、有害で迷惑な人、あるいは単に生理的に許容できない人は、生きていても、あなたの人生においては「去る者」の位置にあるかもしれません。その記憶は忌まわしいものかもしれないですが、古詩の2行目にある通り、別な大切な人たちと多くの楽しく有意義な時間を共有し、それを蓄積することにより、記憶はオーバーライトされてゆきます。去者日以疎と生者日以親はセットであることも重要です。忘れる=消去ではなく、置き換え、上書きなのでしょう。
結局、「去者日以疎」は、人との関係を失うことで味わう精神的苦痛を乗り超えて生き残ってゆく術、知らずに誰もが持ち合わせている術であるということでしょうか。
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