土ドラ『自由な女神ーバックステージ・イン・ニューヨークー』第4話レビュー:そして最後に背中を押されるのは
ミュージカルのフィナーレのように登場人物が終結する華やかさと、少しづつ終演が近付いていくさみしさとが共存する、大千穐楽のような最終回。
クールミントは生みの母に会うべきか?というのが大テーマだったわけだが、それぞれの考え方は少しずつ違っている。
サチと篤史は会いたいはずと主張するけれど、ケンはそんな単純なものじゃないと言う。純と安藤はあくまで本人の問題だと見守るスタンス。
登場人物たちの温度差は、とてもこの作品らしい。
育った環境も、年齢も、置かれた立場も、性的嗜好も異なる彼らは、一つの目的に向かって簡単に一致団結したりしない。
LGBTQのように属性で切り分けてラベリングするのではなくて、こういう差異がちゃんとあるということが、本当の多様性なんじゃないだろうか。
結局サチのスタンドプレーで、ミントと実母・さやかはドラァグクイーンとダンサー志望の女の子としていささかトリッキーな再会を果たすことになる。
あくまで第三者として、親が子を、子が親を思う気持ちを語り合うミントとさやか。まっすぐぶつかるのではなく、ダンスという共通の好きなことを通して互いを理解し許し合っていく、優しい和解シーンになった。
だが、さやかに会えたことでミントの様子はおかしくなったように見え、しばらく店を休むというミントががそのまま店を閉めてしまうのではないかと心配する周囲。
そんな不安定な状況の中、サチ・ケン・篤史の三角関係も揺れる。
篤史は白黒つけようと躍起で、でもケンは恋愛よりも自立することが先だと思っていて。これまでのバックグラウンドや経験値の差は、恋愛に対する姿勢にも影響している。ケンが何を考えているかわからず、踏み込むこともできないサチ。
ケンがサチを大切に想っていることなんて、その表情を見ればわかってしまうのだけれど、ケンだってサチが自分を好きなことくらい知っているのだけれど、ケンは決して性急に決着をつけたりしない。
サチがミントに頼らず、自分の意志で服を作れるようになるまでを、ケンはテントの中でじっと待っている。
明け方、一人で衣装を作り上げたサチを迎えてケンはテントを開けて外に出てくる。ケンがサチの自立を促すために意識的に作って来た壁を取り払った時、テントはまるでサナギの殻みたいに見えた。
そうか、上京して服作りを仕事にすると決めたサチはまだサナギの殻にヒビを入れたに過ぎなくて、今やっと殻を脱いで、蝶になったんだ。
サチやケンのためでなく、ミント自身のために店を閉めないで欲しい。恋よりも先にその部分で想いが重なるのが二人らしい速度で、いい。
実はミントは店を辞めるつもりなどなくて、かつて挫折したニューヨークに再挑戦しようとしていた。
ずっと見ないようにして来た、母に捨てられたという事実に向き合ったミントは、母の愛に力をもらい、もう一度夢の実現に向けて踏み出すのだ。
そしてさやかも自分で自分の居場所を作り、居場所のない人たちを笑顔にして来たミントに動かされる。自分の過ちを認め、今ある居場所を手放し、夫に頼って生きて行くことをやめようと。
この作品がくれるのは、過去を消化して前を向く力だと思っていた。けれどそれだけでなく、自分の力で歩き出すということ。私たちはもうひとつ先の勇気までももらう。
これまでいつだってダンスシーンにはオーディエンスがいた。サチが、安藤が、ケンがクールミントのダンスで前を向く決意をした。今回は最初のダンスこそミントに向けられたものだけれど、ラストのダンスには全員が参加し、そこに観客はいない(正確にはサチの父親が見てはいるけれど)。
ダンスを観ているのは画面の向こうに私たちだけ。最後に背中を押されるのは、私たちだ。
やりたいことを正解にして行く彼らの「これから」を、いつか見ることができたらいいな。その時は私たちも、なりたかった自分に一歩近付いていますように。
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