ドラマ『私と夫と夫の彼氏』第10話レビュー:幸せに正解などないから
「好き」の形は一通りだけじゃない
幸せに教科書通りの正解はなくて。結論を出さないのが結論という、幸せとは何かに真摯に向き合う3人らしいラストだった。
ついに両親に自分が同性愛者であると告白した悠生(古川雄輝)。父・幸仁(飯田基祐)は薄々それを知っていて、ずっと道を外れないように矯正しようとしてきたのだという。親が子供の心配をして何が悪いのかと言う幸仁に、美咲(堀田茜)はそれは心配ではなく支配だと指摘する。
幸仁は常識にとらわれ過ぎているし、おそらく世間体も気にしている。それでも息子の幸せを願っていなかったわけではなく、「普通」から外れたら息子が幸せになれないという不安から息子を管理していたのではないか。
悠生は悠生で、自分が「普通」でいることで両親を安心させたいと思うゆえに苦しんでいた。
形は違っても、自分の幸せを誰かの幸せに置き換えてしまっていたのは悠生と美咲も同じだ。自分の幸せは自分で見つけなければならない。2人でその答えに辿り着いた経験が今、悠生に両親と向き合う勇気をくれている。
「勝手にしろ」と言い残して父親は出ていった。それは悠生の「黙って見守っていてほしい」に対する答えだ。理解はできないにしても、決して「普通」でないことを許さなかったこれまでとは違う。
肩に手を置かれた母の手を、悠生は強く握りしめた。悠生も母も、そしてきっと父も、この先も親子であることを諦めたりしないだろう。その形は世間の「普通」とは違うかもしれないけれど。
両親が出ていった後、自然と美咲を抱きしめた悠生。これまで美咲と触れ合おうとするたびにあった躊躇は消えていて、それが恋愛感情なのかなど意識しなくても、ただ愛しく思う気持ちだけがそこにある。
無意識に「俺、本当に2人とも」と口にした悠生は、その後にどんな言葉をつなげればいいのかわからなくなってしまう。続くべき言葉は、2人とも「好き」。美咲は「好き」が一通りではないことに気付く。同時に複数の人を好きになる、そんなことももしかしたら可能なのではないかと。
「理解できない」の壁を越えて
美咲は真樹(岡本玲)と大地(永田崇人)、それぞれに自分の想いを伝えに行く。真樹も大地も、美咲を恋愛対象として「好き」だから美咲の考えをすぐに受け入れることはできない。
真樹を性的な意味では好きにはなれないけれど、美咲にとっての真樹の存在は、悠生にとっての美咲だ。悠生に初めて会った時とは違っても、大地にときめきを感じる瞬間は確かにある。色々な「好き」という気持ちをどれも諦めなたくないという美咲の考えは無理がある、わがままだという風に見えなくもない。悠生も、複数愛者である周平(本田響矢)ですら、それが本当に美咲にできるのかは懐疑的だ。
けれどそれは今までの「普通」にあてはまらないだけなのかもしれない。美咲は自分の中の壁を取り払って、複数を愛することを前提とした視点に立ってみようとしている。真樹にも大地はもちろん、悠生にも周平にもすぐには理解が得られない立場になると、周平がこれまでどんな孤独を味わってきたのかが手に取るようにわかる。
「よく頑張ってきたね、一人で」
美咲が周平にかけた言葉はつまり、これからは自分も周平側になるという決意表明でもある。これまでそんな風に深いところまで周平を理解しようとした人はいなかった。美咲の周平に対する感情もまた、恋愛ではないけれど疑いようのない愛なのだ。
新しい「好き」の物語が始まる
美咲と悠生は結婚という形式を抜け、3人は一人ひとりの「個」になった。
ともすると無謀なようにも思える彼らだけれど、無計画だったり、いたずらにしきたりを無視しようとしているのではない。
ベランダでハーブを育てる時も、おせちを作る時も、まずはきちんと絵にするところから。お正月には派手な電飾付きの門松を飾り、結婚から卒業するにあたっては袴とスーツで正装する。形式にとらわれず、どうしたら幸せを感じられるかを考えて実行できるのは素敵なことだ。
悠生と美咲の真ん中で2人の腕を取る周平。3人の関係に名前を付けることは難しくても、これは3人が3人なりに考えた結果としての幸せの現在地だ。
明け方、それぞれの寝室から起き出してリビングで顔を合わせる3人。そこに生まれるのは恋愛か、家族の愛情か、それとも別の関係か。この先も3人には戸惑い迷う瞬間が訪れ、その度に幸せとは何かを探し続けるのだと思う。この作品は明確な答えを提示しない。だって私たちの幸せは、私たち自身で見つけていくものだから。
「愛さえあれば」というドストエフスキーの言葉の「愛」は、第1話とは違う響きで3人のストーリーを締めくくる。簡単ではない道だけれど、愛があれば前に進む勇気を持つことができるのだ。3人で「死んだ」あの屋上で迎えた朝と同じように、何度でも新しい朝はやってくる。