ドラマ「ねこ物件」第8話レビュー:二星ロンリープラネット
人はどうやって「孤独」を知るのだろう。なぜさみしいと思うのだろう。
それまで側にいた人の不在によって。愛する人に愛されない不安によって。
私はそういうものだと思っていた。だから優斗の中に、幸三がいないということの他に、一人を感じる要素はないだろう、と。
「どうして猫は、さみしい時や物思いにふける時を分かるのでしょう」
しかし優斗の言葉を聞いた時、彼の中にも孤独があるのだと知り、はっとする。孤独とは自分以外の誰かにもたらされるだけのものではなく、自ずから沸き上がる感情なのだ。
幼い優斗の記憶がそれを教えてくれる。たとえ幸三がいても、猫がいても、太陽が沈む時はやはり、もの悲しい気持ちになるのだ。
「僕は一人ぼっちなのでしょうか」
優斗の問いに、幸三はみな一人なのだと答える。優斗も一人、幸三も一人、猫だって一人。でも一人ぼっちでさみしいと思うのは自分だけではないのだと。
それは一人ぼっちではないと励まされるよりずっと真実に近く、もっと優しい孤独の肯定だ。一人と一人が触れ合えば、お互いの温もりに孤独であることを許されたような安心感が生まれる。猫に触れる時もまた同じように、孤独を共有することができる。
ファンと彼の父親の猫をめぐる確執を解決していく過程で、優斗は二人のさみしさを知ることになる。そして思いがけず、有美の孤独も。
ファンの父親は猫に妻の心を奪われたと思い、嫉妬心から猫を遠ざけて来た。彼は有美との対話を通し、そのさみしさを認めたことで心が軽くなったと言う。
人は誰でも内側に孤独を抱えている。けれど表からは見えないから、自分だけがさみしいような気がしてしまう。
ファンは彼の父親のさみしさを知り、父親はファンのさみしさを知った。お互いのさみしさを理解するということは、心が通うということと言ってよいのではないか。
だから私は優斗のさみしさをもっと知りたいと思う。そして誰かとそのさみしさを共有してほしいと。
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