わたしのヒーロー
5年。
自分の妻が死んですぐ、ひとり取り残された祖父が入院してから5年が経った。
5年。
祖父にとってこの5年はどんなものだったろう。
しんどい思いも、辛い思いも、恥ずかしい思いもあっただろう。
私が祖父に最後に会ったのは1年半前だ。
いや、もっと前かもしれない。
その時にはすでに、この世に期待も、すがりもせずに天井を眺める祖父がいた。
父や母が話をして、たまに私が話して。
目を合わせているのに祖父の目には私は映らなかった。
あの時祖父はきっと私たちとは違う世界を生きる準備をしていたのだと思う。なにかを見ていた。
祖父を目の前にして、何を話せばいいかわからなかった。
何度もこっそり練習していたのに、父と母との前だとどうしても緊張して話せなかった。
部活の大会で優勝したことを伝えられなかった。いつもそうだ。変な意地を張ってこういう時に自分の意見がいえない。
ちゃんと話せばよかったとずっと心残りだった。
祖父の訃報を聞いて、帰省する道中
そんなことを思い出しながら電車に身を任せていた。
祖父が死ぬ1週間ほど前、不思議な出来事があった。
私は、祖父に手紙を書こうかとふと思いついた。
昔から人に手紙を書くのは好きだったがしばらくペンを持つことはなく、祖母が死ぬ前に送った
一通から5年ぶりの思いつきだった。
あとで母から聞かされたが、その日祖父は誤嚥性肺炎になり一時危ない状況だったそうで。
虫の知らせのようなものだったのかもしれない。
けれど、私は書かなかった。
なぜ書かなかったのかはわからない。
思いついたのに、やらなかった。
祖父は、どんな思いで5年を過ごしたろう。
この5年間、
私が手紙や写真を送り続ければ
愛する人が去り、残されたこの世でも楽しみはあったかもしれない。
ずっと、ずっと、ずっと。なぜあの手紙を出さなかったか責め続けている。
それしかできない。
私はじいちゃん子だったのかもしれない
生前、祖父には多くのことを教えてもらった。
竹の切り方や山菜の種類、スイカの食べ方まで。じいちゃんは私の知らない世界を見せてくれた。
いつしか私は、部活や学校を理由にお見舞いにすら行かなくなった。
祖父と話すのがなんだか気恥ずかしかったのもあるけれど、それよりも
祖父が老い、私から離れていってしまうのをみていられなかった。
かつて、消防士として長年地域を守り、天皇陛下から勲章を与えられた、威厳ある祖父は私にとってヒーローだった。
寡黙な山男だったが、心の温かい人で、まっすぐで、一族の大黒柱というような人だった。
父は親族に挨拶して周り、母はお茶を出して、兄は従姉妹たちと受付の仕事をしていた。
私はみんなが祖父の死から逃れようかとしているように見えた。
私はただお茶をひたすら飲むしかできなかった。
みんなが忙しなく動き回る中、葬儀場の前に車が止まった。
冷たそうなパイプのストレッチャーに乗せられた なにか が運ばれてきた。
その なにか をただ見つめるしかできなかった。
わかっていた。それは祖父だと。
とうとう祖父が死んだ現実に向き合わなくてはいけない時がきた。
なにか が祖父だと私が認めたら、祖父はもう
本当の本当に帰ってこない気がして怖かった。
葬儀が始まり、花を添えた時に祖父の顔を見た。
そこには、私の祖父の姿はなく、
希望も心も吸い取られた、老人ホームにいるような「おじいちゃん」がいた。
私は1人どこかに取り残されたような気持ちになっていた。
火葬された骨はピンク色で、ほとんど全ての形がはっきりと残っていて、職員の人も驚いていた。
骨が強く、最後まで強く生き抜いた証だという。
私は間違っていた。
希望も心も吸い取られたんじゃない。
祖父は祖父であり続けて死んでいったのだ。
最後の最後に、祖父はまた教えてくれた。
生と死というものを。
去ってから想い、悼むのでは遅いのだと、
これはきっとどんなことにも当てはまるのだと思う。
人として、何よりも大切ななにかを、
死というカタチで教えてくれたのは祖父だ。
僧は言った。
何年経っても、祖父と同じ歳になっても、
想い続ければ祖父は私の心に生き続けるのだと。
やっぱりわたしのヒーローはじいちゃんだ。
じいちゃんへ
やっとばあちゃんに会いに行けてよかったね。
幸せに暮らしてね
強く生きろと希望を託してくれて、未来を魅せてくれて、たくさんたくさん
ありがとう。元気でね