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誤りを恥じる心

人に対して失礼な行いをしてしまい、心から慚愧の気持ちを抱いている。

このような文で使われる「慚愧(ざんき)」という言葉は
仏典にも登場します。

自分の行いに対して恥ずかしいという感情のことです。

「慚」とは、
自分自身と仏教の教えに照らしてみて
自分の過ちを恥じ、善を尊重することです。

「愧」とは、
世間(法律や慣習)に照らしてみて
自分の過ちを恥じ、悪から離れることです。

自分自身の行いに対して
仏の教えや世間の価値観に照らし合わせ考え
それが間違っていたら
恥じの心をもつということで

修行においては
善い心であるとされます。

人のものを盗んでしまった。

これは仏教的にも
世間的にも間違った行為ですから
慚愧の念を生じ、しっかりと反省しなければなりません。

仏教では、その逆である
「無慚(むざん)」と「無愧(むき)」
という心は不善なものとされます。

無惨に振舞う
というように使われます。

誤ったことを行ったとしても
慚愧の心が生じない人は
仏教的には救いの余地がないとも
いえるかもしれません。

逆に言えば
間違ったことをしたとしても
慚愧の念が生じ、そのことをしっかりと恥じ
反省できれば問題がない
ということになります。

一方で、今は多様性の時代とされ
個々の特性を認めようという機運が
高まっています。

同調圧力を否定する風潮が広まったように
集団の論理よりも
個人の意思や特性を認めようものです。

これは同調圧力に
息苦しさを感じている人にとっては
重要な価値観の変化です。

あるいは、停滞した日本のあり方を
変容されていくのにも
重要です。

しかしそれでも
集団の中で多くの人々に共有されている価値観や慣習を
全く無視してしまうことは
良くないといえそうです。

法律を破ることはもちろんですが
例えば自分の所属するコミュニティにおける
共通のルールとか価値観は
しっかりと守り

それに反してしまったら
ちゃんと慚愧する
ということが幸せに生きる
1つのコツではないかと思います。

とはいうものの
生まれながらなどの原因で
人との協調性をもてない方もいます。

そういった方への配慮も
必要だと感じます。

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真言宗のお坊さんKの小話
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