自問自答の枯渇

世の中はトレードオフ。
これは自然の摂理である。
必ず、、トレードオフ。

誰よりも勢力をもち、結果として地位・名誉を手にした者。
その者がどれだけの金を使用してでも欲しい物の大きな1つに、「時間」がある。

閑暇を心より望み。
閑暇を称え。
閑暇を自分自身にあるどの幸よりもまさるモノとする言葉を、、
目にした事はあろう?
耳にした事はあろう?
そう、心より時間が欲しくなるのよ。

しかし事は単純でない。
そこまでの高みに登った者には、使命がある。
自分以外の人間に大きな影響を及ぼす人間であろう。

船員は死すとも変わらず。船長が死ねば、船は沈む。
手足がなくなろうとも生きるが、頭失えばクモは死ぬ。
従業員は嫌になりゃ退職できるが、トップは背負うモノから逃げられぬ。

人の上に立つ。
それは自分の時間との別離という視点でもある。
世界は違えど、
結婚して子供が産まれ家庭をもった者も似ている因子もあろう。
自分の時間とは別離する覚悟がいる。
どちらも手にする事はできぬ。
世の中はトレードオフなのじゃけ。
何かを選択するのなら、何かを捨てる覚悟がいる。

閑暇とは「暇」の事である。
なんて考えた者は、少しばかり思索に問題がありそうじゃ。

暇がほしい。
休日がほしい。
休みが欲しい。
その類の「閑暇」の事では、もちろんない。

残念な事実として、知能が伴わぬ者に時間を与えてもその内容は期待できん。

貪欲の虜になるだけの者。
大儀のない労役に呪縛される者。
怠惰に惚けるだけの者。
他人の危害を企てる者。
目上への伺候で身を減らす者。
他人の幸運へのやっかみに時間を捨てる者。

まあ、だいたいこのレベル。
<下卑た思索>とはまさにこのレベルの事。

つまり「他人に支配されいる」という事。
「他人を生きている」という事。
なんとも悲しい事よ。

違う。
「閑暇」とは、「時間」とは。

英知(哲学)に費やす時間の事を指す。
英知(知識・経験値)は叡智(思索)となる。

物事を「どれだけ自分だけの脳で思考したか?」で、あなたの道は決まる。

自分の脳で考え、
自分の思索をもち、
24時間365日の全ての出来事に「自分の脳の判断」がある者。
それが自分を生きている人間と言える。

自分がなぜその時間に起きているのか?
なぜその服を着たか?靴を履いたか?
なぜその交通手段なのか?
なぜそれを食べる?飲む?
なぜ歩く?走る?
なぜ働く?無職?
なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?????

聞く相手は、「自分」。
その時間が圧倒的に足りていない。

落合陽一さんの言葉がある。
「朝起きた瞬間から気絶するかのように寝る瞬間まで、考え続けている」
と。

こういう人間こそ、
全ての自分の言葉と行動に思索がある。

どの角度から、どの視点からでも
「なぜ?」
と聞けば、「落合陽一」の脳の回答がくるじゃろう。

大半の人間に「なぜ?」を聞いても、
どこかの言葉をなぞっただけの、
Google先生のような、
チャットGPT様のような、
教師が言ったような、
医者が言ったような、
聖職者が言ったような、
聖書に記載されているような、
信頼しているワケワカメな知り合いの言っていたとかという

ただ、それだけの内容しか返せない。

自分だけの思索。
これをみつける者は本当に少ない。

それだけほとんどの者は「他人を生きる」

建前、空気、常識、一般的。
心底根付いている。
恐らく初等教育からね。

何かに投資しようとするのなら、
時間に投資せよ。

時は金なり。
なんていう拝金主義の思想に巻き込まれている時点で、
「他人を生きている」事に気づくべき。

金はただの紙きれ。
誰かが創ったモノであり、作るモノ。

そんなもんに必死になる事も
「他人の創造したモノで生きる」という事。

自分以外の人間に何の責任もない。
全ては自分自身の責任である事。

つまり

思索不足。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?