鑑賞教育(思考)
自分を知る
様々な手法がありますが、今日はART。鑑賞教育を見ていきます。
僕は物理学が好きで、この前の記事でも物理で大切な事は対象をよく観察する事と表現しました。それはART(芸術)にも強く言えると思っています。
物理学もARTの鑑賞も、正解を探すものではありません。あなたがどこに疑問をもつか?それに対してどのように考えたか?何を調べたのか?どういう結果に行きついたのか?というプロセスを重んじます。
大切な事なので何回も言いますが、何に疑問をもつ事が正解なんてのはないんです。何に疑問をもつのか、のその瞬間にあなたらしさがでているのです。そこを大切にしてほしんです。
さて。まず絵画でも、音楽でも、真っ白な心で向き合ってみてください。「誰の作品」とか「世間に評価されている」とか「伝説の」とか、そういった思考操作の文言は切り離して真っ白な気持ちで味わってみてください。
そして感じた事を感じたまま、書くか話をするかをしてみてください。つまり、即座に感情のアウトプットするって事ですね。
感情をロジカルに変換する作業です。
例えば
これを見たとき、誰の作品かは考えず。純粋に見てみます。
僕は最初に感じたのは、疑問だらけでした。
なんで横一列? 手が特徴的に描かれている? キリストになぜ光輪がない? 顔の表現が豊かやけど、この時代ってそのような表現は許されたの?この人が1番伝えたい事ってなにやろ? この人物の配置には意味があるの?
という感じ。まさに僕の性格がでています。書いたり、話をする事で僕の口からでるのは「疑問」という観点です。
つまりARTは、僕が世の中の現象を見ている時には感情よりも「疑問」という観点からみている人間である事を教えてくれています。
恐らく、上記の絵もみさんが純粋に見たときに「何を考えたか?」は様々でしょう。ヨーロッパでは、そういう個人の観点・世界観を語り合うという事が育まれた事によって「鑑賞教育」が発達したと言われます。
僕の姉は後ろにある風景に注意が向いてたし、ほかにも何を食べているのかに興味をむける人、様々な観点が面白かったりします。1つの絵からも、何を見ているのか?何を発想したのか?世界観はまうで違うのですね。
それを語り合っていく事で、我々の独自性が育ちます。
決して誰かの観点が正解!ではなく、こうやって見るのです!ではなく、我々は一体どのような絵をどのように感じる人間なんやろう?を教えてくれるものなんです。
し・か・し、、、(´;ω;`)
ARTの価値観は「前提知識の披露」やら「金額はいくらか」という拝金主義の観点が本当に多いのが残念な事なのです。。。(´;ω;`)
ついている金額を見て、すごいかすごくないかというジャッジ…
売れるか売れないか?という観点
すぐに、それいくらなん?と聞いてしまう発想力
染まってますね、、、拝金主義に。
作家の知識を暗記させてしまう。経歴を伝える。どのように感じるべきかという心構えを説いてしまう。それはどこかに正解があると考えている日本の近代教育の恐ろしさです。
例えば、モーツァルトの曲の解説書に「病に伏していたので、悲壮感がある曲になっています。」と記載されていたりします。人々は前提知識(思考操作)を知って聞き「確かに、、悲しい曲です、、、。」と表現したりします。
これでは、あなたらしさがどこにも育まれていない。他人が言った価値観に思考操作されて、そのまま表現しただけに過ぎない事もあります。
いやいや少し考えてください。病に伏していたから悲壮感があるってそれも1つの視点なだけです。人は100%の確率で病に伏したら悲壮感を漂わせるんですか? そんな事はない。
病に伏したからといって、その人がどう生きるか、どう表現するかは分からないはずです。
例えば、病に負けないぞ!と力強い曲を作る事もあるでしょう。
それでも笑って生きていたいからこそ明るい曲にする人もいるでしょう。
自分が病に伏している事で、同じ病に伏している人に対して勇気づける曲を作る人もいるでしょう
なので上記に記した解説書は非常に怖いですね。世の中にはこういった思考操作が本当に多く、個人の感性や観点や思考が育つ機会が奪われ続けています。モーツァルトの解説書一つにもこうやって思考操作が入っているんですよ(;'∀')
なので、僕の記事を読んでくれるような方には特に、思考操作に染まらず
改めて真っ白な気持ちで、曲を聞いたり、絵を見たりしてください。
それを繰り返して、何かのメモ帳に残しておいてください。自分という人間の特徴の1つがそのメモ帳にあふれていると思います。
みなさん、ほんとに思考操作されないでくださいね。あなたはあなたでしかありえないのですよ
人に合わせない!
人と比べない!
人に操作されない!
それでは、良い1日を(*^^*)
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