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#20『鈍痛』

1.僕は知らない。

ビート世代の最終的なものを、ユースカルチャーが産声をあげた60年代のユーモアを、本質を失った長髪の競技音楽を、彼らの髪を裁ちばさみで切り落としたアナーキストを、電話付きのリムジンに乗るネオロマンチストを、商業リバイバルの養殖を、カーディガンを羽織った無様な精神病患者を。
(あるいは彼らの死すらも。)

阿波座の街を歩く、ホーボーすらも所在なく立ち尽くす整理された街、視界にはコンビニがひとつ、ふたつ、みっつ、そして、よっつ目のセブンイレブンに立ち寄る、欲しいものはなるべく人の匂いを感じさせない馬乗りの精神と愛情。
缶ビールとエナジードリンクとカップラーメンとコンドームとゴシップ雑誌、あとは即席の平和。
それらはメンテナンスフリーの自由、メンテナンスフリーの自由と2回言ったわけだが、それ自体に特に意味がないのは次の通りである。
つまり、どれを買ったっていいし、どれも買わなくてもかまわない。

待ち合わせは19時。
16時37分には心待ちにしていた約束が、18時5分になった途端激しい憂鬱に変わる。
遠くの空で雷がなってもおかしくないような灰色の空、営業車の幽霊が中央大通を暴力的に突っ走っていく。
充電切れのオフィス街と、無口にうらぶれた精神たちと、モラル的に自殺する若い憤り。
中国大使館前の無愛想な正義は、車輪の下で苦しむ自由を救ってくれなかった、今現在には思い出したくない記憶だけが偉そうにあぐらをかいている。

2.僕は知らない。

男がキザでいられた時代の気の利いた名台詞を、裏切りだけが真実だったアメリカン・ニューシネマのエンドロールを、外耳導火線に火をつけたブロッコ爆弾のほくそ笑みを、子供たちが正気を失った黙示録を、奇才が夢想するもうひとつの未来世紀を、巨額の資金で全米を泣かせたポルノ映画を、浮き足立った奴らが名刺がわりに使うチョーカーを。
(あるいは彼らの死すらも。)

中央線から御堂筋線に乗り換えるホーム、セイウチみたいな背中の大人達が並ぶ列、死ぬまでこの列に並ぶ人生を想像してむせび泣いた、あるいはじゅくじゅくに膿んだ赤切れだらけの手で業務用洗剤に塗れる人生を想像して2度むせび泣いた。
白線の内側までお下がりください、白線の内側までお下がりくださいと2回言ったわけだが、今朝のワイドショーでは白線を飛び越えた女子高生について専門家の大人たちが集まって真面目に討論していた。
SNSの危険性と、誹謗中傷と、家庭内の問題と、学校内のいじめ、専門家の大人たちが集まって真面目にテンプレート、自殺相談窓口のテロップが表示されて問題は解決、右にテンプレート、左にテンプレート。

21世紀の鉄の塊が20世紀のヘルツで轟き、その瞬間誰かに背中を押されるかもしれないという不安が過ぎる。
他人のエンターテイメントが人を殺す可能性がある、宝くじが当たる確率で背中を押される可能性がある、今日もその日ではなかった、疲れ果てた顔で電車に乗り込む。
待ち合わせ時間が10分遅れるとメッセージ、いっそのこと100年先まで遅れてくれればいいのに。
イヤフォンから流れるドアーズが今日は不快、まるっきり今の自分の精神を中和させない。
ビーチボーイズ否、ニューオーダー否、ローリングストーンズ否、アークティックモンキーズ否、スミス否、ボブ・ディラン否、ビートルズ否、ならばルーリードは、とそのタイミングで梅田駅に到着。
ホームに降りた瞬間ルーリードも否、数秒前は確実にルーリードが適していた、それなのにホームに降りた瞬間ルーリードも否、しくじった、逃した、すり抜けた、いつもそういう生き方、その時は気づけないのに通り過ぎてから気づく、まるで自分自身の人生そのもの。

3.僕は知らない。

帰りの燃料もなく飛び立って花と共に散った無免許の正義を、流れに乗っかってバリケードを超えた大学生たちの娯楽を、少女が神様を信じれたニューミュージックのときめきを、マイホームとマイカーという新品のステータスを、知らない人の前で裸になってでも手に入れたいショーウィンドウ越しの手触りのない憧れを。
(あるいは彼らの死すらも。)

片側3車線の国道176号線、均等に流れる人と乗用車と2度と色づくことのないイチョウのような時間。
真っ黒な人混みを掻き分けるのは、名前のない未来に1票を投じるため、されど受け取り手のいない無記名投票、街宣車の怒号と高収入バイトの金切り声、その谷間で縺れる自身の背丈を超えた憂鬱。
無意識に道路の白線だけを踏んで歩く、リスクを避けた生き方はどこか図々しい、だからって誰もがJFKのように死ねるわけではないから、きっかけを探している、きっかけを。

人生には美しい面がいくつもある、それを知れるのは自分だけなんだけど、それを知らないのも自分だけだったりする、だからって美しい人間になれるわけではないけれど。
そういう些細な真実は僕らの意識を無意味にする、言葉は煩わしく心はてんで使い物にならない。
それならばいっそのこと使い回しの屈辱が欲しい、椅子から転げ落ちてそのまま地面に喰い込むくらいの屈辱が欲しい。
待ち合わせの時間を5分過ぎたあたりの心、イージーライダーのジャック・ニコルソンが、ニックニック、ニックニック、振り絞った笑いを誘う。

4.僕は知らない。

頭脳警察1が発禁になった1972年のごたつきを、限りなく透明に近い1976年の青春の青あざを、雨上がりの夜空に輝く1980年のジンライムのようなお月様を、ヒロトとマーシーが出会った1985年のビートルズにも勝る奇跡を、蜂の巣にされた悲しきアジア人の魂がさすらう1994年のコンセプトを。
(あるいは彼らの死すらも。)

紀伊國屋書店の前では誰もが約束を果たし、次の誰かの約束のためにその場所を明け渡す。
僕に足りないのはそういうオートマチックな作業の流れに従う柔軟さ、だけど愛されたい気持ちをもっと憎んで欲しい、満たされたい気持ちには無関心でいて欲しい、僕らは定義の中になんか存在しない、僕らは定義の中になんか存在しないと2度言ったわけだが、それを日常で言葉にするのは楽ではないという定義の中で嘆いているのだから、僕らは定義の中に存在する。

ずっと傍に居ると言った彼も、空が赤く染まれば簡単に心が壊れてしまうことを知っているから、徒労の果てにある切って混ぜただけの見せかけで、誰も傷つかないような嘘を口にする。
まるで空っぽの化け物が1晩中隣で咳をして僕を寝かさないように、静けさで不安になった朝の陽だまりのように、高鳴りで迷子になった午後の蜃気楼のように、郷愁で病になった1色だけの夕暮れの帰り道のように、静寂の物音に耳を澄ました夜の隠れ家のように、僕を引きずり込む、元の場所に引き戻そうとする。
そして深く潜るに連れて 体はまともな感覚を取り戻す、鼓膜は破れ目は潰れ言葉は乾き切った、彼女は僕の心に花を添えて魂を膨張させる、ざらついた自由が精神に靴擦れを起こすように、美しいものはいつだって左右ちぐはぐなんだ。

その時待ち合わせ場所にやって来た人。
日本人特有の申し訳なさに縮こまってやって来た人。
僕もまた次の誰かの約束のためにその場所を明け渡す。
均等な流れに沿って、真っ黒な人混みに溶け込んで、喧しいネオンに見惚れて、僕は当たり障りのない話をする、当たり障りのない話をすると2度言ったわけだが、それについては特に意味がない、僕らは当たり障りのない日常という定義の中に存在するのだから。
僕はそれくらいなら知っている。

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