二、 祖師ヶ谷大蔵の旅
新聞の一面には、祖師ヶ谷大蔵駅での無差別殺人事件が載っていた。当時多発していた電車内での殺傷事件だ。むごい事件だった。その路線はよく使うし、つい先日まさにその駅で降りたからだ。でもがっかりしたのはそれだけによるものではない。この犯人は自分なんじゃないか? と思うのである。
正確には自分はその日は、別のところにいたため、犯人ではない。でも、僕は、何かにおいて絶望する時、自分が最終的には犯罪者になってしまうのではないだろうか? という考えが頭にこびりついて離れない。
それは、教室で授業を受けていて、もし不審者が入ってきたらこうしてやるぞ。という妄想をしていた10代の頃から、不意に襲ってくる考えで、もし自分がそのような殺人鬼になったら一体どうなってしまうんだろうと今回も例に漏れず考えてしまった。そういう考えは、やめろ、やめろ、と思っても絶対にいつも止めることはできない。。。
僕は、電車の中に刃物を持って入り、知らない男性に向かって包丁を突き立てる。そして、次にはもう、なんてことをしてしまったんだと後悔している。そんな光景。
紙一重で、僕はいつも新聞やテレビをざわつかせていないのかもしれない。こんな酷いことを、すんでのとこで押し込めることができるのは、幼い頃、両親に優しくしてもらったからなのかもしれない。優しさを教えてもらったからなのかもしれない。いつも見てるよって教えてくれたからなのかもしれない。具体的なことははっきりしない。でも、もしそれすらもが無かったら、と思うとゾッとする。
でも…、もし仮にだ…、もし仮にとしよう。
それが、もうすぐ時間切れになるかもしれない。
それが、もうすぐ効力切れになるかもしれない。
早くなんとかしなければ。
という新しい考えが頭の中に、近頃はびこっている気がしたらそれはなぜなのか。そして、一体どうしようか?
* * *
その夏は、平行に並ぶ二つの線路の間を、あみだくじをなぞるように歩いていた。千葉県にある自宅最寄りの駅から、東京都に向けてず~っと南西向きへ電車に乗る。すると、新宿を過ぎたあたりから、この線と並行なライバル路線が現れる。そしたら、電車を降りて、そのライバル路線めがけて歩くのだ。あみだくじの橋を渡すように。
降りた場所は、
祖師ヶ谷大蔵駅。
趣味とは、自分で自分に課す人生の制限だと誰かが言っていたが、まさにそうで、僕の場合は適当な駅で降りて、スマホの地図を使わず絶対歩く。使っていい地図は、交差点や駅前にある看板地図。そして前もって、ここにまずは行こうと自宅で見ておく地図だ。平行な二つの線路と書いたが、実際は徒歩一時間ほど離れており地図上での話である。
時には勘に従って歩けば、また興味に従って歩いていけば、長時間歩いても苦ではないし、迷いにくい。今回まず行こうと決めていたのは、線路と直角方向に伸びる駅前商店街だったから、それがピストルの銃身のようにある程度最初の方向づけをしてくれた。
商店街を少し進むと、コーヒー屋を発見したので、冷たい飲み物を買おうと中に入るも豆しか売ってなかった。がしかし、隣にコンビニがあったので、そこでアイスコーヒーを買う。コンビニから出ると、ちょうど真向かいに広大な公団住宅が広がっていることに気がついた。まるで托鉢の僧侶のようだった。敷地はかなり広くて居住棟が何棟も立っていた。公団はどこの地域でも一目見れば、それがすぐ公団だと分かるのはなぜだろう? そう思いながら、敷地内に入り、白くて四角いコンクリート建造物の谷間を歩いた。早速当初の予定である商店街から道を逸れ、街歩きないし、街迷いが本格的にスタートした。
そこの公団は他の地区と比べて一段と静まり返っていた。重苦しく、まるで、冷たい密室を炎天下に放り出したような佇まいだった。うるさいほどの蝉の音しか聞こえず、人の声は一切しない。だが、開け放たれた窓や、そこから聞こえるテレビやラジオの雑音や、干されたばかりらしき洗濯物から、人が住んではいるらしかった。
しばらく進むと、公団内の公園が現れた。一応といったふうに設置されたブランコや滑り台があって、その横に添えられたレトロな色のベンチに一人座って、アイスコーヒーをすすりながら、地面近くで踊るとんぼたちを眺め、頭に浮かんでくる色んな考えを見送ったり時には捕まえたりしながら、肌に汗がじんわり滲んでくると、僕は一体ここで何をしているんだろう? それすら超えて、公団の室外機群の音が消えて、頭の中が真っ白になって、その場と一体化する感覚になる。その感覚が、その夏だけに感じた記憶として他の夏としっかり区別されてからだの中に刻み込まれて、いつでも思い出すことができるようになる。
よし立とう、また歩き始めよう、と気が済むまでそこに座ってから、公園を出た。次に分け入って行ったのは、所狭しと並ぶ高級住宅街だった。ここが世に言う世田谷区の高級住宅街。麻布とはまた違った雰囲気の高級さだ。一つ一つの家が、まるで要塞のよう。
ちなみに、炎天下のため、歩き出てる人はほとんどいない。無言の言いしれぬ圧迫感を高いコンクリート壁から感じとりながら歩くと、急に騒音と車の音がし始めた。大通りに出たらしい。
環八道路(かんぱちどうろ)だ。静寂の住宅街とは打って変わって、両側合計6車線の道路に、絶え間なく車、車が…。
渋滞寸前の車両数と、ぎりぎりの車間で熱い空気ごとじんわりと流れていた。そして、その流れと相対するように、一人の警察官が立っていた。
その警官は手を後ろに組み、帽子の下から覗く厳しい目線で、その土石流をただ眺めているしか他に何もしようがないといった風に、ひとり、その流れと相対していた。
彼の横には交番があった。その交番は、大気圏に突入後、打ち上げ用エンジンが全て切り離された最小構成単位サイズの宇宙遊泳ポッドのように小さく、元々白かったであろう壁は黒いススで薄汚れていた。その壁に埋め込められた赤いランプが、まるで地球との交信装置通電確認灯のごとく、鈍く底知れない光を放っていた。
彼により守られているのは真後ろにあるオアシスだった。芦花公園(ろかこうえん)だ。広場では親子連れがバドミントンをしたり花壇では虫取り網を振ったりしていた。無料で上がれる日本家屋もあった。
そんなとこに訪れる同年代の物好きはほとんどいない。皆んな渋谷とか吉祥寺とか、もしくは高円寺へ行くのだ。それらの街がごった返している。その差し引き分、芦花公園は静かなものだ。特に日本家屋は、無人だった。
僕は玄関上がってすぐ目の前にある囲炉裏の前に正座してみた。一応土足厳禁なのだが、見た目は綺麗ではなく、要するに、座ってくださいという空気なんか微塵も感じない。でも僕は意図的に空気を読まず座った。かつての住人がそうしてたであろうように。するとなんと、立ってた時にはしなかった畳の匂いがして来て、ひいおばあちゃん家のことを思い出した。これが大正時代の空気感なのかと辺りを見回すと、壁の間取り図には2畳の女中部屋なるものが載っていた。目をとじて、大家族の家政婦的仕事をする血の繋がりのない中年の割烹着を着た女の人と、生活を共にする境遇を想像する。
くぬぎ林の中に立つ一軒家だから、室内は薄暗く、小さい傘の電灯がゆらゆらと揺れていた。窓の外にはガラスでぼやけた木々の緑が映し出されていた。木造が、外の蝉や、親子連れが遊ぶ喧騒を上手く中和して、やわらかく室内に届けてくれる。昔、有名な小説家が住んでいたところを公共開放したところとのことだった。
そこが良すぎて長居してしまい、行けたら行こうと思っていた世田谷文学館は目の前を素通りするだけにした。今の企画展は、安西水丸展である。(村上春樹氏の著書のイラストを多く手がける)これは来週に持ち越し。
僕が文学館の入り口を通り過ぎるのと同じタイミングで、向かい側から歩いて来た、村上春樹好きそうな人たちは、すれ違うやいなや、会場の中へ入っていった。僕は、そのまま歩き続け、すぐそばの芦花公園駅(ろかこうえんえき)に着くと、あみだくじが一本繋がった分満足したのか、電車に乗って家に帰った。
僕は当時、エッセイ執筆のスランプ中で、何か閃くかもしれないとした街歩きでもあったが、その日もとうとう何も思いつくことはなかった。
それから三日も経たないうちに祖師ヶ谷大蔵駅にて例の事件が起こった。
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