一、 早朝薄明かりキッチンのフライパン
早朝はまだ、空気が動いていない感じがする。薄明かりの消灯された台所の、薄青みがかったシンクとコンロの間。そのすきまに、前の晩洗ったフライパンが、前の晩には、サラダオイルとカンカンに熱せられていたのも束の間、その熱病もすっかり引いた鉄のフライパンが、ひと湿りの水気も無く全て蒸発し、冷たく鎮座している。
ただそこにあるだけで、これから思う存分、自由に使ってくださいという固めの、まだ誰にも使われていない使い放題の空気。そんな堅実でフライパンのような空気が辺りに詰まっている。朝の早い時間。
朝は家から出たくない。できるなら誰とも会いたくない。頭がリセットされている。客観的作業をやるにはもってこいの時間。気をつけろ。これから夜寝るまでは徐々に主観的になっていく時間。できたらお店の人と会ったりして緊張するなあとか、空を見上げていい天気だなあとか、そういった主観的感覚が頭に蘇ってくることを一秒でも早く遅らせることに。。。
新聞を配達してもらえることは、その一助となる。仕事とは、世界と繋がることだという。サムいことを言うが、これから言うことは紛れもない事実。仕事とは、自分のできないことを誰かが代わりにやってくれるということ。だから僕は、早朝から世界中のウェブ監視カメラサイトを巡回して東欧センター街や日比谷駅改札前に通る人物をくまなく観察し、読唇術でその思考を読み解く必要もなければ、近所の噂大好き族の井戸端会議に混ざってこちらの秘蔵っ子情報を差し出すことと引き換えに、特売スーパーの卵安売り情報や、何処そこの誰ぞの御曹司が最近家の帰りが遅いのは何処そこの馬の骨とも分からない小娘と密会しているからだみたいな、遠く離れた地球の裏側の遥か彼方の遠くから、綿50%ナイロン50%の肉質的ゼロ距離の、とはいえ心や意識からは離れているが、唯物論的には近い、そういったごちゃまぜにされた意味のあるようで意味のない情報を鵜呑みにしなくて本当に済む。
それは、とてもありがたいことだ。
それは、ひとえに仕事をしてくれている誰かのおかげだ。そうであり、それをコンビニ店員にすらそんな気持ちが持てるか? 駅員にすらそんな気持ちを持てるか? 宅配便配達人にすらそんな気持ちを持てるか? 学校の先生にも同じ気持ちを持てるか? 歩道を歩いてる危なっかしい老人にも同じ気持ちを持てるか? 図書館カウンターの人にも同じ気持ちを持てるか?
挙げ出すとキリが無い。途方もない。いや、ちがう。そうじゃない。持とうとして持つんじゃない。自分がやりたいと思っていることをやっていれば、それが蜘蛛の糸のように世界に散らばって、やがてはコンビニ店員の肩にもその糸が繋がっていく。
人間は欲望の塊だ。見えないものも大切にしろ。
最近、新聞を取り始めて思った。それは、朝起きて、ポストに新聞が挿さっている喜び、幸せ。
仕事なんて結局は誰でもできるものだ。
そう思っていた。
でも、
その空いてる席には僕が座らなきゃいけない。
という仕事があるんじゃないだろうか。
でも、
この席は誰かのためのものだったんじゃないだろうか、
という仕事があるんじゃないだろうか?
* * *
その夏、僕は三十歳になりかけた最後の二十代を飼い殺すように気怠い日々を送っていた。
せめてもの償いとしてジョギングをして、近くの沼を、
ぐるぐるぐるぐる。
もう飽きるほど、
ぐるぐるぐるぐる回って、
もはや沼の中心には台風の眼ができるんじゃないかってくらいだった。
竜巻が巻き起こって、上昇気流と、入道雲がもくもくと立体的に立ち上がるような、それに沿って、プロペラ機が、垂直に太陽に向かって高度を上げて行くかのような、そんな夏だった。
いや、実際は違った。
沼をひたすら、ぐるぐるぐるぐる回って、その挙げ句の果てに出来たものは、その近隣で、最も暇な若者が、最も一番深く地面を足で掘ることによって刻まれた〝魔法陣〟だった。それはある種の儀式かのように自分の気持ちをも強く彫り刻み、輪郭づけていくようでもあった。
魔法の紋様を考古学者の如く解読してみる
一文字ずつ順番に読み解いていく。
すると、、、
一文字目は、 〝や〟
二文字目は、 〝め〟
三文字目は、 〝ま〟
引き続き解読していった。
すると、
〝や め ま す〟
という四文字の簡単な呪文が書き記してあった。
何を思ったか、
その魔法を僕は、職場の上司に唱えてみた。
そうしたところ、案の定、会心の一撃だったらしく、しかも副効果として3ターンほど石化して硬直していた。でも僕は偉い人に媚びへつらうことは、まだ辞め切れず、そのトドメを刺すのに絶好な数ターンの中、
「こんなに人を驚かせたのも久しぶりだな…」と、上司の固まった表情をのんきに見ていることによって、消費することにしていた。
簡単なことだ。このままだと心が死ぬ。そして二度と生き返りはしない。だから辞めることにしたのだ。悪いのは会社ではない。反省すべきはこの会社を選んだ僕。
不思議なことに上司皆から「君の人生だから…」と言われた。
「知るか」
と、思った。
* * *
無限路地裏とは何か?
と、あなたは尋ねるかもしれない。無限路地裏とは、路地裏と路地裏が偶然重なり続けて、遠くの方までずうっと細く連鎖した生活路。だから、きっとあなたの街にもある。僕は阿佐ヶ谷で見つけた。
哀しいなんて言ってる暇があったら、家の外へ出てみよう。いつもと違う帰り道を帰ってみようぜ。そしてそれを悲しんでる人に語るんだ。そうすることでしか僕は生きてこれなかった。君もそうなんじゃないのか?
* * *
阿佐ヶ谷は、東京都中野区にある。
阿佐ヶ谷名物、パールロード商店街。
夜のパールロード商店街は、漆黒の暗黒の世界に、オアシスのようにぽっかりと開いたアーケードアーチ。光輝くオレンジ色のトンネル。
僕はそれを見ると、家に帰りたくなくなる。誘い込まれるまばゆい光とオーラが出ている。だから、阿佐ヶ谷は夜に開いている街なんだ。
* * *
その一方で、こんな街もある。西小山だ。
西小山は、駅前も、家も寝静まって、夏の夜なんかは蝉の声しか聞こえない。そして家という建物自体もぐっすり眠っているかのよう。
空には星空がよく見える。星々が、屋根の上に光の斑点を作っている。
人工光の少ない街。でも、夕方の西小山商店街(にこま商店街)には、たくさんの個人商店、八百屋、魚屋、文房具屋、本屋と、その店主らや、学生、主婦らで、ごったがえさず、あくまでわいわいとしている。そんな雰囲気。だから、阿佐ヶ谷は夜に開いている街である一方で、西小山は帰る街なんだ。
僕は、いつかこの街に引っ越して住みたいと思っていた。
だが、今の仕事はどうするんだ?
それに、もし辞めたとして西小山は家賃が高く、
風呂無し物件は免れない。
僕は、あの街に住み続けるしか選択肢はなかったのだ。
あの街に。
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