音楽/社会
よく有名人の中に、「小学生の頃の恩師のおかげで自分はこの仕事に〜」とか、「あの時の先生の一言がなかったら今の僕は〜」みたいな、なんだよその大人から才能を見出されたり、子供なのに家族でない大人と大人の付き合いをできる思慮深さは…と羨んだりしたこともあった。僕にはそんなものはなかった。でも、一人めちゃくちゃアクの強かった先生のことは、とてもよく覚えている。その先生は、眉毛がかなり太かった。だから、「まゆげ先生」と呼ぶことにする。
まゆげ先生には、ふざけた態度は通用しなかった。常に全力だった。なあなあにはしない。例えば、ふざけ過ぎると、いつも全力で黒板消しで殴られていた。クラスの中で主に僕が。そのときはいつも周囲に白いチョークの噴煙が舞っていた。古めかしいメガネをかけ、ボサボサの髪の毛で、190cmに近い中肉中背の高身長が着る大きなダークスーツを背景に白いチョークの噴煙が、教室の大きくて沢山ある窓ガラスからさす日差しも相まって、粉の一つ一つをよく照らしていた光景が、はっきりと思い出される。
振り落とされるその怒りに、「黒板消し鉄拳」と名付けて笑っていた。いじめとかではなく、愛を感じていた。(どMか?)ダミ声感のあるテノール調の彼の口癖は、「そ〜いうわけで〜」と、授業始まりに必ず口にし、僕たちも揃いに揃ってその真似をした。授業も何も始まってないし、今始まったばかりなのに、何がそういう訳なんだ、と。
彼は、僕の担任ではなかった。(担任は担任でハゲとか薄いとかいう言葉に敏感に反応しキレるアクの強さだったが…)まゆげ先生は、社会と音楽の担当だった。僕がマセ始めた小学五年生の時に他校から異動してきた。授業はまあ適当に受ければいいや、特に音楽は遊びだという態度だったから、最初はめちゃくちゃ厳しい人だなと思った。他の先生でも怖い先生はいるのだが、その人たちとは比べても違った。彼が怒るときは本気で怒るし、怒る理由も一本の芯が通ったような理由であり、僕らは納得できた。いつぞやか、誰か友達同士で何かトラブルがあって、そのいざこざが授業開始前まで及んだので、まゆげ先生が介入して授業の前半に説教されたことがある。その時彼が言ったことは忘れられない「そんなのは友達じゃない…そんなことするくらいなら、友達は辞めてしまえ!!!」世間では友達が大事とか友達が〜とか言うけど、それは本当に友達なのだろうか?足の引っ張り合いではないのだろうか?そう言いたかったんだと思う。
他にも、彼の音楽の授業で一番最初に放った言葉は、今でも覚えている。「ほとんどの人は、卒業すると音楽で歌った曲なんかは忘れてしまう。でも俺の受け持ったクラスは卒業して何年たっても歌えるんだ。」と。恩着せがましさとかは感じず、何か凄みを感じた。実際、彼はめちゃくちゃ厳しく、それは音楽を真剣にやらない人に対してだが、僕なんか最初の頃は慣れず、よく授業を止めて名指しで怒られた。先生の音楽の授業は、まるでスポーツのようで、皆んなが一斉に楽器を吹き始めるところで、一人だけ遅れたりすると。誰々!!(名指しで)入れって言っただろ!!と、指揮棒を譜面台の上でベシベシ叩いていた。折れるんじゃないかってくらい。彼は私生活で合奏団や合唱団の指揮を執っていたので、それも頷ける。
一方、社会の授業は緩かった。ある日、授業が始まったかと思いきや、いきなり黒板におっさんから羽が生えて街の上を飛んでいるとてもゆるいデフォルメされた絵を無言で描き、その下に”まゆげの部屋”と殴り書いた。「俺は自分のホームページを作ってて、いつも日記を書いている。これがトップページの絵だ」と。僕はそのホームページを探り当てて、日記にコメントを書いてやった。また、歴史上の登場人物を、「デブのおっさん」呼ばわりして親近感を湧かせる説明をしてくれるなど、社会の授業中は本当によく笑わせてもらった。
そんな無茶苦茶なところもあったけど、僕は嫌いになることもなく、それは僕だけじゃなく、ほとんどのクラスメイトに好かれていた。黒板消しで叩かれるくらいの盛り上がりは見せるが、授業は荒れるわけでもなかった。彼は怒るとか感情を素直に表現していたので、誰に裏切られるでもなく、こちらも素直になれたからだろう。
だから、仲良くなりたくていつも授業終わりに話しかけに行ってくだらない質問や雑談をした。向こうは歩くのがめちゃ早く、というか早く次の授業の準備がしたかったんだろうなと、改めて考えてみると。要するに軽くつきまとっていた。しかも、先生にとっては不運なことに、彼は僕の家の、本当に真ん前に住んでいた。団地の中の、二車線道路を挟んだ向かい側である。彼はそれが嫌だったのか、僕に気を使ってなのか分からないが、あれってあんたの学校の先生じゃないの?と母親に言われるまでその事実を知らなかった。僕は、先生への愛が溢れんばかりになった頃合いの時期に、先生がちょうど帰宅し、車から出たところへ、「せんせえ〜〜〜!!!」と大声で叫んだものであった。先生は恥ずかしそうに片手を”よお”と言ったかんじに上げて返事を返してくれた。でもさあ、今にして考えると大人だって色々あるんだから子供と違ってやさぐれたりなんか色々考えて無になっちゃってるときもあるだろうに(特に一人で運転中ではそうなりがちだと大人になってからそう思う)、そんなときに教え子に大声で外で呼ばれたらちょっと今はやめてくれってときもあったんだろうなと、ほくそ笑んでしまう。
そんな呼びかけを数回し反応があまり良くないなと思って呼ぶのはやめてしまった。さすがに何かを察したからだった。
とはいえ、先生とは結構仲良くさせてもらった。その後も音楽準備室に足繁く通ってCDを貸してもらうなどさせてもらったのは、大変ありがたいことだった。この貸してもらったCDによって、中学時代に数少ない良い思い出も作ることができたことも先生と出会ったからなのだ。これについてはまた、どこかに書き記せたらと思う。
先生と出会ったことで僕の人生が決定的に変わったことはないけど、でも影響を与えられた人ベスト5には間違いなく入る。僕は彼から自由に生きていいことと、情熱を注いで生きていいということを学んだ。小さくもなく、大きくもないけど、今の僕にはなくてはならない要素を受け継がせてもらうことできたのだ。
その証拠か、たまに小学校の時の合唱曲のメロディーが、ふと頭に歌詞とともに浮かんでくる。それを口に出してみると、するすると歌うことができる。
同時に昔の思い出も蘇ってくる。
あの一番最初の、音楽の時間に、太い眉毛の先生がこちらを真っ直ぐ見据え、大声ではっきりと言った言葉を思い出す。
「卒業しても歌えるんだ!!!」
それから約20年の時を経て、あの時とは体も大きくなり、外見も中身も何もかもが変わってしまった僕の体で、あの時と変わらない先生と相対する。
そして、僕は先生にこう伝える。
「あ、本当に歌えますね、先生」
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