買っても二度と見ない
好きな本ってのは読み返しても、多くて三回だと思う。
と、昔、好きな女の子と遊んでいるときに話した。相手は、うーん、そうかな…?と少し考えた。しばらくしてから、何かを思い出したように、たしかにそうかも…!と言った。何気ない自分の中の法則を、ふと思い出して、同意してもらえたことが嬉しかった。やっぱそう?やっぱそうだよね?うんうん。と心の中で思ったものだった。
僕は、活字本は多くて三回までしか読み直したことがない。小説や新書のことだ。流石に三回読んでしまうと、だいたい中身を覚えてしまい、新鮮味がなくなってしまうので、読みたい気持ちも薄れる。でも、本棚にずっと残しているのは、たまに本棚に並んでいる背表紙を見て、これ面白かったなーって懐かしみたいがためなのだろう。いつかまた必要になる時が来るかもしれないし。
時間がもったいないっていう気持ちもある。でももし時間が無限にあるなら、本当に飽き尽くすまで一つの本を何度も読み直したい。
子供のときは、漫画を二週間に一冊しか買ってもらえなかった。だから、同じ一冊の本を何回も何回も繰り返し読んだ。僕は”星のカービィ”を集めていた。それは、児童向けであるはずなのに、「赤字国債発行せい!」とか「余分な国有地をどんどん売っぱらえ!」みたいな難しいセリフがよく出てきて、その度に親に聞いたが、結局のところよく分からなかった。親もよくわかってなかったに違いない。だから何回も読み返せたのかもしれない。意味の分からなさがツボとなっていた。だから僕は今でも唐突な意味の飛躍が一番笑えたり、それで笑いを取ろうとしたりするんだろう。
同じ漫画を何度も読んでいると、自分にとってのお気に入りの話が見つかる。そして本当にふとした瞬間に、例えば休日の昼下がりとかに「あ、あの話もう一度読みたい」と思いつくことがある。
他の漫画では、”こち亀”を集めていたことがある。なんで小学生にしてこち亀を集めていたのだろうか。おそらく、二週間に一回しか買ってもらえないから、シリーズものは話が進まなくて辛い。ならば、1話完結もので適当に巻数を選んでもハズレが少ないもの。そして、僕の好きなサブカルチャーを取り上げたり、最新ガジェットまで取り上げてくれて、意外とウィットネスに富んでいるものは…という選定基準だったのだろう。当時は直感で選んでいたから、こんな論理的に選んでいたわけではないけど。ところで、このタイトルをご存知無い人に向けて説明すると、この漫画は主人公が特徴的なのである。主人公は、暴れん坊だけどここぞという時の人情は人一倍厚い警察官で、名前は両津勘吉(りょうつかんきち)という。単行本は100巻を越えている長寿連載だ。その中で、こういう話があった。
カーナビが世に出始めたとき、こち亀も最新ガジェットとして取りあげたのだ。こち亀の話は、最初はまともな導入から入る。例えば、カーナビはGPS(グラウンド-ポイント-システム)機能を持っていて、人工衛星からの電波を受信して自分の現在地がわかるんだ。のようなものだ。しかし、途中から両さんが突拍子もないことをし始めてから、話の雲行きが怪しくなってくる。こういう話のセオリーというか型がある。今回は、カーナビの画面が小さいからと、巨大なテレビを持ってくることからそれが始まる。巨大なテレビは、車の中には入らない。その大きさは、フロントガラス目一杯のインチサイズの巨大テレビ(しかもブラウン管投影式)であり、それを車体の外側からフロントガラスに取りつける。カーナビの画面はデカくなったものの前方ガラスは塞がっていて前が見えない。でもカーナビだけで走行できるだろ、GPSで現在地が地図上に表示されているんだからと、両さんは暴君っぷりを発揮し、金持ちな同僚のポルシェをボコボコにぶつけて街中を走行し始める。最終的には、自身が警察官であるのに、逆にパトカーに追いかけられ、カーナビだから地の利はこっちにあるぞと、パトカーを巻いたと思いきや、カーナビの地図が古くて袋小路にて捕まってしまうという話があった。これを、ふと休日の昼下がりに思いつき、あのテレビってどうやってフロントガラスに固定されていたんだっけ?ネジじゃないと思うんだけど、、、あー気になってしょうがない、どれどれこち亀を開いてと…あー、ガムテープか、なるほどー。こうなるわけだ。
と、まあ半分以上、冗談な話はさておき、大人になるにつれ自由に使えるお金が増えてから、あれほど貴重だった漫画1冊の値段はそんなに高くなくなって、かなり手頃な娯楽となり、湯水の如く電子書籍の漫画を買い、激烈な速さで消費していた。だから、最近では同じ漫画を二回以上読み直すことは滅多に無くなった。二週間に一冊だった時代には、もう戻れそうにない。そんな中でも、よほど面白いと思った漫画は読み返す。なぜなら、最新刊を待っている間に古い巻の話を忘れてしまうから。もし読み返さずに最新刊を読んでしまうと、ページをめくる手は進むには進むが、途中で本当に訳がわからなくなってしまう。それは、登場人物の名前や境遇、生い立ちはもちろんのこと、リアルタイムで脳の短期記憶に置いておかなければならない彼らの感じている気持ちみたいな息遣いなのだ。
ちょっと変わって映画の話、僕が初めて買った映画は、「ノルウェイの森(原作:村上春樹)」だった。なぜ買ったのかというと、僕が思うエモい恋愛みたいなものを忠実に映像化し体現したような作品で、衝撃を受けたからだった。ところがどうだろう、2回目に観る映画って、期待が高すぎるからなのかわからないけど、ここだというジャストタイミングで観て、この上ないぐらい感動したい。しかしながら、そういうタイミングってなかなか訪れないものだ。恐らく同じ映画なんて、観れても3回くらいだと思うし、その数少ない1回をこちらの体調のせいで台無しにしたくない。
もし、何回も観てしまうとしよう。すると、話を覚えてしまうだろう。どこでどの人が出てくるとか、次はどうなるか。とかだ。話を覚えてしまうと、興味がなくなってしまうかもしれない。それは、とても恐いとさえ思う。
その結果、本棚にいつまでも取り出せずに仕舞い込んである映画DVDがあって、たまにその背表紙が視界に入る。その度に、あれ面白かったよなーもう一回見たいけど、でもタイミング的に今がベストじゃないから見たくないな、という複雑な気持ちがよぎる。分からないことを残しておいて、いつまでも気にかけておきたいのだ。それは、好きな人に対する自分の気持ちの温め方と同じだ。急速に知ろうとしすぎず、ゆっくりと。
人それぞれ、昔体験したこの話、なぜか好きなんだよなーってやつを持っていると思う。
そういう個人的な話を徐々に打ち明けていくのは恋愛の醍醐味だし、受け取ってもらえるなら、さらに嬉しい。受け取った後、誰彼構わず他人に話さないでおいて、しっかり持っておいてくれるのも嬉しい。色んな人に際限なく話されると、僕の持ち物を貸しただけなのに、又貸ししないで欲しいと思う。勝手に僕の冷蔵庫のものを取り出して、しかも変な風に料理して他人に提供しないでよ、みたいな。
逆にそういう話をこちらから聞かずとも自然に打ち明けてもらえるのも、また嬉しい。まあそんなこと、滅多にないことなんだけど。でも、たまーにあって、この双方向のやりとりは、大事な約束をちょっとずつ守り増やして、互いの糧“かて”にしていくようで、尊い行為だと思っている。
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