人生の選択肢に性別があるだけ
本記事で僕が述べることは、あくまでも僕個人の考えです。これらを自分以外の他者に強制する意図はありません。すべての他者の性について批判する意図もありません。怒ってないです。本当にセンシティブな話題ですので、どうかお気をつけてお読みください。あと遅くなってすみません。
依頼者:くろださん
言の葉をだいぶ中略してしまってすみません。
僕の中にあるトランスジェンダーの定義は、「出生時に割り当てられた性と異なる性自認を持つ人」としています。
「出生時に割り当てられた性」というのは「戸籍上の性」「体の性」と混同されることがあります。人間は出生時に医師または助産師等によって性別を判断されて割り当てられます。一般的にはそれが戸籍上の性となりますが、戸籍上の性を変更することもできるので両者は異なるものとして考えています。体の性は何を根拠に定義するものであるかが難しく、性染色体、外性器、内性器などそれらは個人差が大きく、僕はトランスジェンダーの定義に用いることは避けています。
性自認はジェンダーアイデンティティとも呼ばれますが、自分が認識している自身の性です。一般的には「自分は男(女)だ」という認識のことを指しますが、性自認というのは男女の二種類だけではありません。それ以外のXジェンダーやクエスチョニングも含まれます。僕は「出生時に割り当てられた性とは[反対の]性自認を持つ人」としなかったのは、「反対」という言葉で定義した段階で性が二種類であるということを暗に示すことになるからです。ゆえに「異なる」という言葉を用いています。
そして僕は性自認というものが、いかに曖昧であるかというのを知っています。
僕が最初に性同一性障害の診断書をもらったのが16歳、戸籍上の性を変更したのが26歳でした。そんなわけで、僕は自身の定義においてトランスジェンダーであるといえます。ただし僕は「僕は男性だ」という性自認を強く自覚していたわけではなく、「僕は女性ではない」という自分の性を否定する性自認を起点として、出生時に割り当てられた性とは異なる性別で生きることを選択しました。
誤解なきよう補足しますが、「僕は男性だ」という性自認がなかったわけではありません。スクールカウンセラーに「君は性同一性障害ではないと思う」と言われたり、「僕は未熟なだけでいずれ女性として生きられるはずだ」と苦闘したり、足掻いて喚いて死に損なって、そうしてようやく「僕は女性ではない」という性自認に気づきました。しかしそれだけでは「僕は男性だ」とはなりません。「自分はこれからどう生きたいのか」という観点で将来を考えたとき、「僕は男性なのであって、男性として生きたいのだ」という性自認を「認めたくなかったけど認めざるを得なかった」という感覚でした。そうしないと、自殺一直線だったわけです。
それから治療や手術をして今に至るわけですが、実は僕が堂々と「僕は男性だ」と言えるようになったのは戸籍上の性を変更してからです。
僕は、性自認で出生時に割り当てられた性以外の性を主張するというのは、この世界ではまだ受け入れられることが簡単ではないと思っています。具体的にいうなら、「お前女として生まれてるのに何で男って言えるわけ?」と言われたとき、それに反論できる証拠がなかったからです。戸籍上の性を変更した(日本においては正式な書類上の性が男性になった)ことが、僕にとって最大の証拠になりました。
くろださんの仰る「元々の女性に迷惑というか、根拠がないというか……」というのはこの考え方に近いのではないかと考えます。
また、僕の性自認は「女性が嫌だから男性がいい」というロジックではありません。女性でない性を望むことと、男性を望むことは微妙に異なります。僕が男性を望むということは、自分が男女のどちらかに分類されたとき、男性に分類されることに対して「当たり前」で「納得できる」状態です。仮に女性ではない性を望むならば、男性という分類に対して同じような状態にならないことだってあるでしょう。
晩御飯のメニューを決めるときに「カレーで良い」と「カレーが良い」とでは意味合いが異なるでしょ?一緒です。
つまるところ、性自認というのは曖昧で、そしてトランスジェンダーだからといって一概に決まるものでもないと思うのです。そして、僕のように幼少期から違和感を覚えて苦しんでいるものの、最初から性自認を言い切れるほどの自信がなく、女性として生きるなら死んだ方がマシと実感し、自分はトランスジェンダーなのだとある意味の諦めによって覚悟を決める人間もいます。
くろださんはトランスジェンダー反対派に近い思考になっているとのことですが、おそらくトランスジェンダーに対して相対的剥奪感を抱いているのではないかと思います。詳しくは検索していただきたいのですが、とても簡単にいうと他者と比較したときに生まれる羨望とか嫉妬とか憎悪とかを含めたネガティブな感情です。くろださんは自分でトランスジェンダーじゃないと結論を出したからこそ、トランスジェンダーとして生きる人々に相対的剥奪感を抱き、トランスジェンダー反対派の思考に至ったのではないかなということです。
知ったこっちゃないです。
くろださんが今もモヤモヤとしているのであればそれは、やはり心のどこかでその結論に納得がいっていないのではないでしょうか。トランスジェンダーとして生きることは決して楽な道のりではありません。治療や手術は副作用も伴います。特にホルモン治療は面倒でも貧乏でも必要がある限り続けなければなりません。莫大な費用がかかります。そしてどれだけ治療や手術をしても僕はシスジェンダーの男性にはなれないし、くろださんはシスジェンダーの女性になれません。性別を越境するというのは、そういうことなんです。戸籍上の性を変更しても自殺してしまったトランスジェンダーだっています。きちんと自分自身と折り合いをつけられるかということが大事なんだと思います。
LGBTがだいぶフューチャーされていますが、特にトランスジェンダーは議論(炎上)しやすいテーマがいくつもあります。性犯罪や迷惑行為などは人として論外な話ですが、それ以外のテーマの議論を見ていると「トランスジェンダーは自ら望んでトランスジェンダーになったのだ」だから「シスジェンダーに配慮しなければならない」という思考が根底にあるのを感じることもあります。
好き好んでトランスジェンダーになったわけじゃねえよ。
僕の最終的な回答はただ一つ、くろださんがそのモヤモヤとした感情を抱え続けることが苦しいというならば、ジェンダーに関することを診てくれる病院(ジェンダー外来などの専門機関)に行ったほうが良いということです。くろださんがトランスジェンダーであったとしてもそうでなかったとしてもそれを考えるためにも、「くろださん自身を客観的に正しい知識を持って話を聞いてくれる専門家の視点」というのが必要なのではないでしょうか。
他のトランスジェンダーのことは分かりませんが、少なくとも僕は批判をされようが注目を浴びようが、生きるためには出生時に割り当てられた性と戦わなければならなかった人間です。そして僕は、男性として生きている自分の選択を恥じたことは一度だってないし、悲劇だとも思っていない。正式な書類上の性を変更してもなお僕を女性だと言う人間がいるならば、僕はお友達にはなれないだけです。
この世界では「出生時に与えられた性を超える(超えようとする)者」をトランスジェンダーと定義している、それだけの話です。
自分らしく生きるなんてありきたりな言葉は置いておきましょう。あなたはこれからどうやって生きますか、どうやって生きたいですか。