1ミリだけ秋が来た気がした
夏は、悲しい歴史を辿るきっかけをくれる。
ここ最近はニュースもSNSも地上波放送も見ていない。オリンピックが開催されていたということも、どこかで大きな地震があったということも、僕は会社の人たちから聞いた。そして、長崎の式典が世界に影響を与えたというのも、僕はこの前初めて知った。
イスラエルとかウクライナとかパレスチナとか、世界に目を向ければカタカナばかりの単語が並んで、日頃から物事の理解を漢字で補っている僕にとっては読むだけでも混乱する、世界情勢とはそういうものだった。でもそれは、僕がこの国に住んで今の仕事をしているからであって、そうでなければきっと違ったんだと思う。
僕が何かを知って語ったところで世界は何も変わらないだろう。それでも僕がこうして文字を書き連ねているのは、やはり心のどこかでこれがとっても大事なことだと信じているからなのかもしれない。
人は、死ぬ。
戦死者という形で表されるのはたった何桁かの数字だ。1でも10万でも100億でもそこにあるのは数字の羅列であってデータであって、それらが僕に訴えかけるのは数量の大きさという概念だけで、その数字に含まれたすべての1という数の背景にどんな人間のどんな人生が詰め込まれているかなんていう意味合いは、ばっさり切り捨てられる。
十数年前、東北で起こった地震が生み出した黒ずんだ何かが、生き物のように水田やビニールハウスや走行中の車や逃げる人々を次々と飲み込んでいく様子を、食い入るようにテレビで見つめたのを思い出す。毎日毎時、ニュースで報道される死者数は次々と増えていった。でもそこにあった僕の感情は、数が増えたという認識であっただけで、そのカウントされた1や2や5がすべて人の命であるということを忘れかけていた。
感覚が麻痺をするのだろう。
人の命について考えるとき、僕は必ず一つの事件に思いを巡らせる。関東の障がい者施設で起こった殺傷事件だ。事件発生日が近くなると、僕はWikipediaを隅から隅まで読む。そこに書いてあることが本当にすべて正しいかは分からないけれど、読まないという選択肢は僕の中にはなかった。人が存在するということがどういうことなのか、僕は今も答えが出せないままでいる。
命という重さは、数字という器だけでは溢れてしまう。
世の中の人の大多数は「自殺をするなんてとんでもない」という。どうしてかなぜか、僕からしてみればこのとんでもない世界で生きることを望んでいる。その根拠のない期待ははどこから来るのだろう。そうして人々は生き続けることが当たり前だと思っていて、だけどもそれは自分の世界のことだけの話だ。遠い国の罪なき一般人が爆弾で焼け殺されようとも、少し離れた地方の罪なき一般人が真っ黒な津波で溺れ殺されようとも、隣り合う都道府県の罪なき一般人が刺し殺されようとも、不幸だったと他人事として感情を消費する。他人事であることに変わりはないから当たり前の反応で、いちいち他人のことなぞ覚えておけないわけで、でもそのくせ自分の命は別物のように扱う。
命を数量としてあえて挙げるならば、生きとし生けるものがすべてカウント1だ。それでも主観というフィルターは、自分の命の重み付けには1以上の数字を与えるのに、他人の命の重み付けには1未満の数字を貼る。人間らしい?うん、実に人間らしい。
この世界はどう頑張っても人が人として存在するから回っているというのに、ふとそのことを頭から消してしまった瞬間に何よりも大事なそのことを忘れてしまう。自分に関係あることだって忘れてしまうのに、自分に関係ないことなんて忘れてしまうに決まっている。
お盆休みに帰省した実家の和室の一室は、僕の父と祖母の写真が床の間の一箇所で飾られていた。久しぶりに父の顔を見た、ここ一年ほどで僕は一重から二重になって、父の顔に似ているとばかり思っていたのに二重はどう頑張っても母の譲りだ。自死で亡くなった祖母はあの世で「死んで良かった」と思っているだろうか。事故で亡くなった父はあの世で「こんなはずじゃなかった」と思っているだろうか。
つい最近父は僕の夢に出てきて、明確な発言が聞こえたわけではなかったのに、とあることで僕を叱っていった。決してこの世には戻ってこないけど、多分僕をよく見てくれている。父も祖母も命のカウントは1だ。それでも多分、時間という溶媒で1は薄められていくのかもしれない。実子の僕の1がそうなるのだから、他人の溶媒のスピードはきっともっと速い。
僕は生きるとか死ぬかに執着しているよりも、どう生きるかに執着している。だから自分の望ましい生き方ができないならばそこに生きる価値はないと判断してしまう。それは死ぬということへのハードルが僕の中で一般的な考え方よりだいぶ低いから。
夏は、途方もなく壮大なことを考えるきっかけをくれる。