役得ってやつですか?
飲み始めてから、4時間が経った。僕の目の前に座っている幼馴染は、すでに酔っ払っている。
残業続きの仕事から解放された本日は金曜日で、会社の最寄駅から電車に乗ろうとしたタイミングで、唐突に電話がかかってきた。聞こえてきたのは疲れた幼馴染の声で、「今夜空いてるでしょ、飲みに行こう」と僕の予定も聞かず、彼女は当たり前のように告げた。確かに、確かに、空いている。付き合っている彼女もいなければ、一緒に飲み歩く友人もいない。それはそうだが、実感をするたびに少し寂しくなる。家に帰れば、待っているのは冷えた発泡酒だ。
安くて美味いと有名な居酒屋に入った。奥まった座敷の席に彼女はすでに座っており、ビールのジョッキは半分くらいがなくなっていた。こっちこっち、と手を振る彼女に、僕は少しだけ手を上げた。並べられた料理はどれもおつまみとしては優秀なラインアップだったが、僕は店員を呼び、中ジョッキのビールとラーメンを頼んだ。
「いきなりラーメン?〆じゃないの?」
「いいんだよ、腹減ってんだから」
ひょいと枝豆をつまんだ彼女は、それを流し込むようにビールを呷った。彗星の如く彼女から呼び出しがある時は、決まって彼女の身に何かがあった時だ。仕事を辞めようと思っているとか、家族と大げんかして居場所がないとか、僕から見れば大したことがないことでも、彼女からしてみれば大事なのだ。僕はなかなか口を開かない彼女を促すように話を切り出した。
「で、何の話を俺に聞かせたいのよ」
そう言った僕に、彼女はパッと顔を上げ、それから即座に視線を逸らした。どうやら、あまり良くない話のようだ。今夜は長くなるぞ、と僕は覚悟をすることにした。彼女の唇は濡れていて、背後の大学生らしきグループが騒いでいて、申し訳程度に流れるBGMは懐かしい曲のカバーで、彼女は意を決したように、言葉を繋いだ。
「告白されたの」
その一言は、僕にとって大きな衝撃だった。まるで鈍器で頭を殴られたような感覚だった。生まれたときから家族ぐるみの付き合いをしていた彼女が、小学校でも中学校でも高校でも大学でも、異性との交際経験はないと豪語していた彼女が、20歳もとうに超えた歳で、僕の前で、自信なさげに俯いていた。僕は開いた口が塞がらず、空気だけが通り抜けていった。彼女の顔の赤さはアルコールのせいではなく、きっと羞恥のせいだろう。
「へえ」
ずっと僕の隣にいたはずだった彼女は、社会人になると途端に綺麗になった。スーツを綺麗に着こなし、品のあるメイクをするようになった。身長もそこまで高いわけでもなく、愛らしい顔立ちをしている。男顔負けの酒の強さを除けば、可愛らしい女性といった風に通るだろう。僕は彼女のことを幼馴染の1人として見ていたし、それ以下でもそれ以上になったわけでもなかった。実際、僕には彼女がいたこともあったし、彼女に彼氏が出来たことは知らされていなかったが、今回の反応を見る限りはきっと恋愛沙汰を経験するのは、初めてなのだろう。
「誰に」
思っていた以上に僕はぶっきらぼうな声を出して言った。ぽつりぽつりと語り始めた彼女は、今にも泣き出しそうになっていた。メンタルが剛金の彼女にしてはたいそう珍しいことだった。相手は会社の上司で、3個上の年齢だという。いわゆるエリートと呼ばれる出世コースに乗っていて、誰もが振り返るイケメンらしい。そんな男に告白されて、何を迷っているのだろうかと僕は思っていたが、彼女の心情はそうではないらしい。
「そんな気持ちで見たことなかったし、それに」
「それに?」
「会社とプライベートは分けておきたい」
良く言えば初志貫徹、悪く言えば頑固な性格をもった彼女は、感情論で動くことがあまりなかった。僕と喧嘩をする時はいつも徹底的に僕を打ちのめすくらいの理論を持ち出してきたし、僕は彼女で喧嘩に勝ったことは一度だってなかった。どれほどの男であろうとも、彼女の意地の強さには敵わないだろう。それでも彼女が迷う理由は、上司に対して断ったときに会社の居場所がなくなる可能性のことや、いずれ上司を好きになるかもしれないという可能性のことだった。全てを予想の範疇に収めようとする彼女は、ありとあらゆるケースを考えることが得意で、ただしそれはネガティブな方向にも流れてしまうことが多く、今回はそういうことだったようだ。
酒が進むにつれ、彼女の発言は増えていった。上司のことは本当に信頼をしていること、今の会社で出世をしたいと思っていること、告白をされたことで女性社会で肩身の狭い思いをしていること、最近は残業が続いて精神的に参っていること、ありとあらゆる愚痴が溢れ落ちてきた。僕は適当な相槌を打ちながら、彼女の話を聞いていた。僕は彼女にとってそういう役回りをすることが多く、慣れていたのだ。
ただ、彼女が呟いた台詞が、僕の頭を鈍器で殴ったような衝撃を与えたことは、消えることがなかった。心の何処かで、彼女が誰かの手に渡ることを恐れていたのかもしれない。心の何処かで、彼女がどこか遠くへ行ってしまうことを恐れていたのかもしれない。心の何処かで、彼女が恋愛に振り向かないことを安心していたのかもしれない。彼女に対して幼馴染だという感情だけを持っていたであろう僕の思考は、彼女の台詞で砕け散ってしまったのかもしれない。
僕も彼女も酔いが回り、何なら彼女は完璧に出来上がった状態で、空になった皿が置かれた机に突っ伏した。割り箸をコンコンと机に叩きながら、僕に何ともない文句を言う。いつもの決まったパターンだった。彼女がこうなると、僕と彼女はこの30分後に店を出ることになる。大体その辺りの時間が店の閉店時間で、僕と彼女の終電の時間だからだ。
「泊まってく?」
むくりを起き上がった彼女は、アルコールで少し目を潤ませながら、じっとりとした視線で、上目遣いで僕に言った。僕の家に泊まらせろということなのか、彼女の家に泊まれということなのか、はたまた適当なホテルを選べというのか、僕にはその意味がわからなかった。いずれにしても、僕にはどの選択肢を選ぶ勇気はなかった。僕は、彼女に手を出してはいけないと思っていた。誰からも指図されたわけではないというのに、真っ白に見える彼女に触れることが、何かを汚してしまうことに、酷く怯えていた。
「帰るよ、俺もお前も」
それは、突き放したように聞こえたかもしれない。彼女は、僕の目から視線を逸らし、乾いた笑いを作っていた。それからの話は、気まずくてどうしようもなかった。僕は言葉を選ぶことに必死だったし、彼女は話題が無くなることを避けているようだった。お会計をするときまで、彼女は率先して喋っていた。僕は、彼女に着けられた綺麗なブレスレットを見ながら、息を吐いた。
最寄り駅は、1駅違いだった。同じ路線の同じ電車に乗り込む。座席に座った彼女は、僕の隣で規則的な息を繰り返すようになった。熱を持った彼女の頭が僕の肩に寄りかかった。睫毛が長いとか、唇が潤っているとか、肌が滑らかだとか、髪が艶やかだとか、否が応でも感じさせられる状況に、僕は彼女に告白したとやらの上司に思いを馳せた。生まれてから20数年一緒に過ごしてきた僕だけが、彼女の抜けた表情を見られるのかもしれない。上司のことが羨ましく思えた。僕は謂れのない雁字搦めに陥っていると勘違いをしたまま、ひたむきに彼女への想いを隠してきたのかもしれない。幼馴染でありそれ以下でもそれ以上でもない関係のまま、僕はその事実に安堵していたかったのかもしれない。上司の告白というイベントに、僕と彼女の関係にヒビが入りそうなほどの衝撃に、僕は耐えきれなかったのかもしれない。僕は、彼女の隣にずっと、いたかったのかもしれない。
「俺にしとけば?」
誰にも聞こえない声で自嘲した僕は、彼女が降りる駅に着くまで、そのまま身体を動かすことが、出来なかった。
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