錆色の心臓に水を差す
嫌い。親が嫌い。学校が嫌い。他人が嫌い。
中学校に入ってから、私の毎日は暗雲が立ち込められたものだった。親の勧めによって受けされられた私立のそこそこ頭の良い女子中に合格して、公立の中学校に進学する小学校で仲の良かった友達とは離れ離れになった。
私の身体は登校しようとするたびに頭痛や腹痛を引き起こし、自然と布団に潜んで部屋に閉じこもるようになっていった。朝早くから出勤する両親には黙ったまま、こうして休み続けていることが知られるのも時間の問題であろうと分かりながら、私は全てを放棄したようにベッドの上で手足を投げ出した。
いじめられたわけじゃない。勉強についていけないわけじゃない。そういうの、多分あると思っている。生きるのが、めんどくさくなるってこと。
学校を休むと身体の調子は良くなる。朝は起き上がれなかったのが、昼間には布団を抜け出して母親が作ってくれた弁当をリビングで食べる。夕方までの時間は、よく本屋に出かけた。お小遣いが足りなくて買えない参考書を眺めにいった。今欲しいのは1学年上の教材で、特に国語の解きごたえのある問題が欲しかった。学校のテストはつまらないし、教科書もワークも学校を休み始めてから全て済ませてしまって、兎にも角にも暇で、何となく面白いことを探していた。特別に勉強が好きなわけではなくて、ただ単純に得意で、時間を過ごすには向いているだけだと思っていた。
「毎日来てるよね」
いつも通り参考書を吟味していた私は声をかけられると肩をびくつかせ、無意識に声のする方から一歩下がった。その主は本屋のエプロンを着けたよく見る店員だった。本屋の店員にしてはえらく活発そうな身体つきをしている。何かスポーツでもやっているのだろうか。髪は短く刈り上げられ、身長は私よりも30cmほど高い。スラリと伸びた手足に着られたシャツは見るからにファストファッションのブランドではなさそうだ。
「すみません」
毎日来るくせに何も買わずに店を出る私を咎めに来たのだろうと思った私は即座に謝った。顔を上げると、眉毛をハの字に下げた店員は手を振り、慌てて私の言葉を否定した。
「いや、俺が言うことでもないかもしれないのだけど」
「こんな平日の昼間に、学校は行かなくても大丈夫なのかなって」
「えっと、要らない心配をしちゃって」
「全然、店に来てくれる分には良くて」
言葉をゆっくりと選ぶように紡いでいく店員は、私の方を見て口を開いていた。面を食らった私は、何を思ったか、学校に行っていないことや、欲しい参考書があることや、暇を持て余していることを話し、すると店員は駆け足でレジへ戻っていった。少し経つとまた駆け足で私の元に戻ってくると、A4サイズの紙を私に差し出した。
「俺が手伝ってる、サークルなんだけどね」
それは大学生が運営するサークルで、午前中から放課後の時間まで、地域の公民館や公園で学校に行っていない子どもの交流を図る、そういう活動をしているようだった。店員の名前がチラシの隅に小さく書かれていた。あらゆる大学に在学中の大学生が集まって結成されており、勉強をしたり工作をしたり、利用は無料で、私はそのチラシに釘付けになった。
「こういうの、興味ない?」
チラシを見る私におずおずと言葉を並べ、店員は私に声をかけた。実のところ言えば、参加をしてみたい気持ちがあった。大学生と勉強をするなら学校の勉強よりも格段にレベルが違うだろうし、それ以外にもイベントや創作活動など私の興味をそそる内容が散りばめられていた。デザインも凝っており、コピー用紙ではないしっかりした紙だった。
「興味、あります」
そう言う私に、店員はホッと胸を撫で下ろしたように笑みを浮かべ、今日一緒に行こうと誘ってくれた。「15:00で俺のシフトが終わるから」と。15:00が来るまで私は本屋の参考書を眺め続け、それから仕事を終えた、エプロンを外した店員が私の所に向かってきた。道すがら、今日の場所はいつも借りている公民館の2階で、その公民館は私の家から割と近く、普段来ている大学生は少なくとも4人はいて、子どもは多くても6人くらいだと聞いた。
公民館の外観は古びていたが、リフォームしたのか、中は広く綺麗に整頓されていた。ふかふかのネイビーのラグが敷かれ、多種多様な本が詰まった本棚が並ぶ。茶色のソファーは革張りで、シンプルな木目調の椅子とテーブルが置かれていた。室内には私と同い年か年下の子どもが3人おり、大学生は5人いた。それぞれが本を読んだりボードゲームをしたり勉強をしたり、自由な空間が流れていた。
「さっき言ってた子」
そこにいた大学生の5人が私の方を向き、それぞれが挨拶をした。子どももつられて私の方に会釈をしたりお辞儀をしたりする。私は慌てて頭を下げ、「お願いします」と呟いた。店員は壁に貼られているこのサークルのルールをいくつか言い、「そのルールさえ守れば何でもしていいからね」と微笑んだ。
「あの、勉強がしたいんですが」
本棚に押し詰められた教材を指差し、私はそう述べた。ここで過ごすのも、勉強が一番もってこいだと思ったからだ。私の言葉を聞いた店員は「ねえ、頼んで良い?」と悪戯に手を合わせる。他の大学生にバトンタッチをしたらしく、私の方に来た1人の男性が、教材を見繕ってテーブルの上に持ってきてくれた。国語、数学、理科、社会、英語、小学校から大学レベルまで揃っている。
「得意科目はなに?」
「国語です」
「じゃあこういうの、どう」
男性が私に見せたそれは、見たこともないオリンピックの過去問題集だった。手作りなのか、印刷された紙がファイルにまとめられている。
「言語学オリンピック」
「そう、国語が得意だからって全員出来るわけじゃないんだけどさ、何か向いてそうだなって思って」
それはれっきとしたオリンピックだそうで、数学オリンピックであれば聞いたことはあったが、言語学というものがあり、ましてやそれにオリンピックがあるなんて、当然知る由もなかった。ただ、気になることは気になる。
「やってみる?」
私は男性の言葉に頷き、椅子に腰掛けた。対面で紙をめくる男性は片手にシャープペンシルを持ちながら少し唸り、手始めに入門編のレベルだと思われる問題を、印刷してくれた。
それが、私のターニングポイントだったと思う。
結局のところ、両親には私が不登校になっていることがバレて、それでも両親は私のことを叱らなかった。学校にはテストの時だけ出席して、あとはサークルで言語学オリンピックの過去問をずっと解いていた。教えてくれる大学生は限られていたが、大抵は1人で黙々と解き進め、たまに時間が合えば大学生に質問をした。そうして流れていく時間は、私の毎日を上手く循環させていた。
朝の体調不良はなくなり、サークルに参加するために早寝早起きが身についた。無下に過ごしていた昼間は、言語学オリンピックの過去問やたまに学校の課題を進める時間になった。何もかもが嫌いだと言い、ぼうっとベットで寝っ転がっていたあの頃から3ヶ月、私の日々は何となく動くようになっていた。
錆色の心臓に水を差す
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