世界が始まる音が鳴る
つまらないのは、世界の方。
大学を卒業後、ベルトコンベアに載せられるように就活をした僕は、大して興味のない分野の企業に、あたかも「昔から興味がありました」なんて顔で内定をもぎ取った。企業は決して悪くなく、何なら東証1部上場の上出来な企業だったが、僕の心はそんなに浮つきはしなかった。日本の中で3本の指に入るくらいの大学に通っていた僕の周りの人間は、いわゆる外資系や大企業の内定を数多く持っていたし、僕に内定をくれた企業は「よくある企業」の1つだった。
数年前、新型のウイルスが大流行して、当時研究室に配属されたばかりの僕は、それまで対面のゼミが行われていたのにも関わらず、周りの「ソーシャルディスタンス」なるものに阻まれた結果、オンラインでの講義が主流になった。論文の輪読も研究の進捗報告も全てオンライン、特にオンラインへの抵抗はなかったが慣れていたわけでもない。小遣い稼ぎになっていた塾講師のアルバイトもオンライン授業に切り替わり、就活もオンライン面接になり、何というか、便利だけど不便だった。
満員電車は良くないから、と国が打ち出した在宅勤務の推奨は、僕の勤める企業でも推進されていた。週に1回の通勤だけで済むようになり、新入社員研修も以前は合宿形式だと言われていたが、僕が入社したときにはすでにオンラインのカリキュラムがびっしりと組まれていた。他の企業はどうなのか分からないが、週に1回は鉢合わせる満員電車の洗礼を浴びる限り、どこも在宅勤務が進んでいるわけではないようだった。何がオフピークだ、全然オンピークじゃないか。
出勤の日はもう少し早く起きるが、在宅勤務の日は8:00に起床してぼんやりとバターが塗られたトーストを囓り、コーヒーメーカーで入れられたエスプレッソを啜り、面白くもないテレビに目をやる。新聞を読んでめぼしい記事がないことにうんざりし、ため息を吐きながらパソコンの前に座る。出勤では必ず着用だったスーツは在宅勤務でほとんど不必要になり、スーツはクローゼットに仕舞われ、代わりに辛うじてオフィスに映えるような襟付きの白シャツにネイビーのジャケット、セットアップでスラックスも購入した。白シャツは同じ物を数枚あるが、セットアップはネイビーとグレーを選択した。今のところネクタイは必要なく、文句も言われていない。
「出勤しました」。僕は部署内のチャットにそう言葉を投げると、昨日に終わらなかった仕事の続きに取り掛かり始めた。男の1人暮らしよろしく、最初はベッドとテレビとローテーブルさえあればいいと思っていたが、在宅勤務が主流になれば話は変わる。長時間にも耐えうる椅子と程よい広さのデスク、デュアルディスプレイ用のモニター、パソコンや電子機器を快適に使うためのガジェット類、僕の目の前にはあらゆる物が所狭しと並べられていた。引っ越し代よりもお金はかかっている。こういうところに金の糸目はつけないようにしている。
「冴木さん、最近見なくないですか」。同僚の1人が僕にチャットを送ってきた。確かに最近チャット上でもオンラインミーティング上でも見かけていない。欠勤しているのであればその旨は周知されているが、何の音沙汰もなかった。僕は上司にそれとなく聞いてみたが、上司も分からないとのこと、それに加えて上司は僕に無茶を振ってきた。「海野くん、家まで見てきてくれないか」。個人情報の保護はどうなっているのだろうと思ったが、冴木さんの住所は僕の家と目と鼻の先だった。同じ部署で同期だというのに、僕は普段は他人に興味がないことが災いした。冴木さんのことを上司に聞いたことが間違いだったような気がする。仲良くもない単なる同期に、ここで時間を割かれるのはごめんだ。
断ろうとした僕を察したのか、上司は業務時間内に行ってくれていい、と言った。そもそも仕事の話なのだから当たり前なのだが、他人の家を訪問するだけで賃金が発生するならばそれは結構なことである。僕はパソコンを閉じると、上司から送られてきた住所をスマートフォンで検索し、家を出た。もしかすれば家で倒れているかもしれない、応答がなければ鍵が空いていなければ通報だろうか、夜逃げの可能性はないか、あらゆる想定をしても意味はない。結局のところ、辿り着いて正解があるのだから。
到着したマンションはいかにも最近建てられたような物件で、オートロックがかかっていたので冴木さんの部屋番号を押してみたが返答はなく、そのままオートロックのかけられたドアの前で立ちすくむことになった。偶然にも宅配便のお兄さんがオートロックのドアを開けてくれたので、そそくさとついていき、冴木さんの部屋番号が書かれた部屋の前に着いた。僕はインターホンを押す。一枚隔てたドアの向こう側の空気が、微かに動いた気がした。多分、いる。僕はこういうことの勘が鋭い。
インターホンの返事がないまま、玄関にペタペタと歩いてくるような感じが読み取られ、一番近づいてきたと同時に、玄関は開かれた。ガチャンと音が鳴ったも束の間、僕は玄関のドアの狭間から伸びてきた白く細い手に腕を掴まれ、ぐいん、と引っ張られた。咄嗟の出来事に僕の身体はよろめき、そのまま部屋に上がり込んでしまった。僕は頭の中にエクスクラメーションマークとクエスチョンマークを浮かべながら、辺りを見渡した。僕の目の前にいたのは、紛れもなく少し痩せ細った冴木さんだった。
「ねえ、今隠れんぼしてるの」
白いワンピースに白い肌がよく似合う、唇はオレンジの毛色が強いグロスが塗られた、髪は墨汁を垂らしたように黒く艶やかだった。僕は訳が分からないまま、眉を顰めた。隠れんぼをしてるのは一体いつからで、それは誰とで、仕事をサボっても良いものなのか。僕の疑問を全て吸い取ったように首を大袈裟に横に振った冴木さんは、僕の目をじっとりと見つめて言った。
「ねえ、パラレルワールドって知ってる?」
僕の思い浮かべた疑問には一切答えないまま、冴木さんはまた不可思議な言葉を繰り出した。全く持って訳が分からなかったが、僕は冴木さんに腕を掴まれたまま大きく息を吸い、最近のつまらない世界に辟易していたことも相まって、ゆっくりと冴木さんに迫った。冴木さんはそんなことを気にする風もなく、僕に小首を傾げ、妖しい笑みを称えた。
「何それ、連れて行ってくれるの?」
世界が始まる音が鳴る
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