全部の嘘を信じてあげる
ピエロ、そっちの方が良いでしょ。
「明るく楽しく前向き」。ずっとそう心掛けてきた。小学校2年生の時に両親が交通事故で亡くなり、父親が亡くなったことをきっかけに、父方の祖父母とは縁遠くなり、僕が中学校に入学する直前に祖父は心筋梗塞で、祖母は癌で亡くなった。両親と暮らせなくなってから、僕は母方の祖母の家に住んでいた。祖父は、両親が亡くなる前に亡くなっており、僕が高校を卒業することを待っていたかのように、就職に内定が決まったその日、祖母はくも膜下出血で亡くなった。
幼少期は何とか「家族という存在」を受けられていたものの、18歳で母方の祖母を失った後、段々と孤独に陥った。23歳になった僕は、就職先で働きながら1人暮らしをしている。毎年、両親と父方の祖父母と母方の祖母の墓参りは欠かさず行い、小さく作られた部屋の片隅にあるタンスの上には、僕が小学校1年生だったときの家族写真が飾られている。
正直なところ、家族が死んで良かった。
今になって思えば、僕が受けていたのは虐待だった。両親からは身体的虐待、いわゆる暴力があり、食事がなくなることもしばしばあった。家庭に両親がいるときは、大抵は2人が酔っ払っていて、何か僕が物音1つたてるとすぐに飛んできて、僕の服で隠れた部分を殴り、蹴るのだった。両親が亡くなり、母方の祖母は一気に元々軽度だった認知症がかなり進んだ。その後介護をしながら小学校から高校時代を過ごした。頼れる親戚はおらず、行政から提供される福祉サービスを使う他、自力で何とか動けた僕が介護をするしかなく、そういうギリギリのところで生きていた。
僕は、過去を不幸だと呪ったことはない。ネガティブに考えそうになることもあるけれど、いつも大体はポジティブに考えるようにしている。過去を振り返ったところで何も生まないし、未来に目を向けた方がよっぽど良い。就職先に勤めて数年、僕は「明るく楽しく前向き」なキャラを確立した。小学校から高校時代までは暗く、クラスでも影が薄く、何ならいじめられてきた存在だったが、家族が亡くなって、僕は解き放たれたように変わったように思う。
「秋山くんって、絶対何かあるよね」
「何か突き抜けた明るさっていうかさ、不自然なときあるよね」
社会人になって春になって、何回目かの歓迎会で、目の前に座った同僚が言った。僕はつーっと冷たい汗が背中に流れたのを感じた。女の勘というべきか、僕は大袈裟に首を振って否定した。僕は家庭環境に問題なく生きてきたし、学校でもクラスの中心人物として過ごしてきた、と嘘を吐いたことはないけれど、そういう人間のように振る舞っている。そうでもしなければ、過去に縛られて僕は何も出来なくなりそうだったからだ。
「遅れてすみません!」
居酒屋の扉から慌てて入ってきたのは、1人の女性だった。新入社員だろうか、真新しいスーツを身につけている。それに気づいた他の社員は各々手招きし、彼女の来訪を喜んだ。どうやら会社が実施している研修が長引いたらしい。僕は彼女をチラリと一瞥し、それからカチっと頭の中で何かが鳴る音がした。嫌な予感がした。「稲生さん」と彼女は呼ばれていた。思い出したくもない、過去のページをひっくり返した。中学時代の2年3組、僕は彼女を幼くしたモンタージュを想像し、思いつく限りのクラスメイトの名前を探した。その違和感が解けたのは、考え始めて1分も経たなかった。
中学時代の同級生、僕をいじめていた主犯格だった。
「秋山くん、だよね?」彼女は他の社員の誘いを上手にかわし、僕の元にやって来た。そうするのに時間はかからなかっただろう、明るく楽しく前向きな僕の周りには、いつも人がいたから。「稲生さん、久しぶり」「秋山くんここの会社だったんだね!」中学時代の頃と変わらないキャピキャピした甲高い声に僕は耳を塞ぎたくなる。僕は周りの人間に事情を説明しながら、彼女と盃を交わした。お酒が強いらしい彼女は、僕よりも早いペースでグラスを煽った。
トイレに立った僕が席に帰ろうとした時、偶然を装った彼女が僕に近づいてくるのが見えた。彼女に張り付いた笑みは中学時代に僕の上靴を池に投げ込んだ時と同じ表情だった。「秋山くん、キャラ変わったんだね」と彼女は僕を舐め回すように見た。僕は足がすくんだ。何も言い返せず、無言の空間がその場を覆い尽くした。「昔のことは黙っといてあげる」「だけど、私の過去をバラしたらあんたの過去だってバラすから」、彼女はアルコールが入っても変わらず語気の強く話した。
「明るく楽しく前向き」がモットーだった僕は、会社に行くことに恐怖を覚えるようになった。彼女が同じ空間にいることに震え、彼女との会話が、例えそれが業務上の事柄であったとしても、僕の身体は硬直した。あの頃の記憶が次々と浮かび上がり、僕は無口になりそうになった。それでも社内では何とかピエロを演じ続け、家に帰ると何度も吐いた。何も食べられなくなり、そうしていくうちにピエロのエネルギーも失われつつあった。
そうこうして半年が経ち、大きなプロジェクトの打ち上げ会で、僕は彼女の隣に座ることになった。以前はぐんぐん進んでいたビールが半分に留まった。彼女は僕に近づき、弱っている僕を確実に認知しておきながら、僕に囁いた。
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