世の中とcotonohaとモヤモヤと
依頼者:不知火さん
アプリcotonohaのseedから初めてnoteの記事の依頼がきたので記事を書きます。モヤモヤとなるのは大体が仕事に関することなのであんまり記事にできないのですが、抽象的にぼかして書き殴りたいと思います。
日本国内のあらゆることは、心身に障害や健康上の問題がなく、一般的な体格と日本国籍をもち、家族関係の不和がなく、性染色体と性自認が一致する異性愛者であり、正規雇用者として労働する成人向けに設計されている、僕はそう考えています。子ども、高齢者、障がい者、外国籍保有者、性的少数者、被虐待者などは省かれるわけですね。少し前はここに女性も含まれていたことでしょう、もしかすると今でも含まれているかもしれません。
確かに世の中を設計するには、人口の大半を占める属性に合わせた方が効率が良いというのは頷けます。何かを作るにはヒトもモノもカネも必要です。これらが無尽蔵に湧き出てくるわけでもないから、効率が良い設計をすることはきっと仕方のないことでしょう。でもそうするが故に、世の中で生きづらさを感じている人がいます。自分ではどうしようもないハンデを背負っていて、それを解消する手立てが誰から与えられるわけでもない、そういう状況の人たちがいます。
世の中は笑ってしまうくらいに自己責任の原則に則っています。仮にそれが自分のせいではないものであったとしても、自分の属性に関係しているものはすべてそうだと突かれます。理不尽です。例え少数者の立ち位置でなかったとしても、生きていれば一度や二度はこのような仕打ちを受けたことがあって、だからこそ人間は他者に同じことを繰り返すのかもしれません。愚かですね。
僕の最近の仕事は主に自社の職員が使うシステムの開発です。システムを新たに導入するというのは、パソコンが苦手な人からすれば暴力だともいえます。訳のわからないものを押しつけられるからですね。それはシステムを使えないほどパソコンが苦手な人のことは考慮されていないということを意味します。世の中の自己責任の原則に則ると、システムを使える人間からすれば「パソコンが苦手な人がシステムを使えないのは自己責任だ」となります。僕はエンジニアと名乗るのは恐れ多くてできないけれども、このシステムを開発した人間です。知識や技術があるということになります。
効率だけを追い求めてパソコンが苦手な人を除いたシステムの設計は、最善だといえるのでしょうか。パソコンが苦手な人がシステムを使えないことを自己責任と切り捨てるのは、最善だといえるのでしょうか。僕は、それを最善だというならば、cotonohaで出会う人たちが苦しんでいる世の中に賛同することと同じだと思えて仕方がないのです。
俗にいう平均というのは加算平均のことであり、有象無象の集まりの合計値を有象無象の集まりをの数で割ったにしかすぎないのに、何故だかそれが正しいと信じてそれを思い求めてしまうのです。本当はすべてが平均的である人の方が少数者であるというにも関わらず、それを基準とした世の中が設計されています。矛盾していますね。
僕が自分で掲げているシステム開発の方針は、「誰ひとりとして取り残さないシステムにする」です。
辛くて苦しくて息ができなくてどうしようもなくなるほど逃げ出したいときもあるでしょう、不安と心配で心に暗雲が立ち込めるときもあるでしょう。誰かに突き刺された言葉の刃は、他者を理解しようとする努力を放棄した、ただの怠惰の成れの果てかもしれません。自己責任で押しつけられるべきものではないものかもしれません。
誰にでもできることとできないこと、得意なことと苦手なことはあるでしょう?
多数者に合わせた世の中の設計が増え続けるというなら、そんな規則や制度が増え続けるというなら、自己責任の原則が突きつけられるというなら、いっそのこと少数者は世の中を諦めた方が効率が良いのかもしれません。
それでも生きる権利を投げ捨てる行為を僕がいつまでもできないのは、cotonohaのユーザーが存在していること、心のどこかでこの世の中を諦めきれないからだと思います。僕はcotonohaを続けることが自分の使命だとは思っていません。cotonohaのようなアプリが必要なくなるような世の中になること、どちらかといえばそっちの方が大切ではないかなと考えています。
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