バツの中のレベルアップ

依頼者:しおりさん

私は、15歳の頃に解離性同一性障害と診断されました。今は28歳の会社員(休職中ですが)です。

haruさんは、
成長、進歩、前進、ってどんなものだと考えていらっしゃいますか?

私は今、10代の頃に感じた壁と、特に変わらないそれとぶつかっています。

(中略)

もちろん変わったことも沢山あります。

(中略)

今までいろんな壁を乗り越えてきたし、きっとこの壁も私は乗り越えるんでしょう。けれど、乗り越えて乗り越えて乗り越えた先に、私は私を私の手で終わらせてしまう気がするのです。
それなら、終わらせるのは今でも良いんじゃないか。

(中略)

成長したと思っていたのに、
人生の第二幕が始まったと信じていたのに、

(中略)

この期に及んでまだまだ整理整頓できていない過去や、奥で大暴れしているトラウマたちに左右されている現状が、凄く悔しくて、情けなくて、悲しいです。

飛ばしたい言の葉

しおりさんは今までたくさん頑張ってレベルアップをしてきたのだけれども、どこまでいっても見える世界は同じで、ならばいっそのこともうレベルアップなんてしなくても良い、終わらせたっていいと、そう思われているのではないかと感じました。

僕は発達に何らかの障がいを抱える(または抱えているかもしれない)子どもたちを支援する仕事をしています。発達に何らかの特性を持つ子どもたちは、定型発達と呼ばれる一般的な子どもたちに比べて発達が緩やかであったり、遅れていることが多いです。かくいう僕も、社会的な能力など見えない部分の発達は明らかに遅れていると自覚しています。

そんな子どもたちに学習支援をしていると、中々難しい課題にぶち当たります。やってもやっても覚えられないとか、どうしても字が書けないとか、計算ミスばかりするとか、何も知らない人から見れば「怠けている」というような課題です。本人はいくら頑張っても点が取れないわけですから「自分はできないんだ」と自信を失くしますし、保護者の方は「うちの子は一つも成長しない」と肩を落とします。でもそれは、ただ視点がズレているだけであることが多いです。

例え話をします。

すべての問題が4択問題で、100点満点のテストがあったとしましょう。すべてを勘で答えてもおよそ20〜30点くらいは取れるとします。Aさんはいつもこのテストですべての問題を勘で答えます。つまりAさんはこのテストのうち、答えが分かっている問題が一つもないということであり、それでも30点ほどは取れているとします。

ある日このテストで25点を取ったAさんは、一念発起して勉強をするようになりました。今までにないほどAさんは勉強をしました。自信満々に受けた次のテストでは30点でした。

皆さんはどう思いますか。「全然点数が上がってないじゃないか」、「勉強が足りなかったんじゃないか」、「5点でも上がったのだから勉強したかいがあった」…色々と意見はあるかもしれませんがこれらの意見に共通しているのは、点数に着目しすぎているということです。

数字というのは簡単に客観的に何かを評価するのにピッタリです。でもそれが故に、時に大切なことを隠してしまうこともあります。

もしも僕がAさんの学習支援をしていたら、はじめにこう考えると思います。「実際のテスト用紙を見せてほしい。そして本人から話を聞かせてほしい」と。

なぜかというと、Aさんが取った30点のうち、本当に答えを分かって回答した問題がいくつあったのかを確かめるためです。今まですべて勘で答えていたわけですから、勘ではなく自らの力で回答に辿り着けた問題はなかったのかを探します。もしかすると、分かっていたけど些細なミスで正答に結び付かなかった問題も、勘違いして理解していた問題もあるかもしれません。

それらは、点数に表れないんです。

先に述べたように、僕が関わる子どもたちは何かしらの発達の特性を持っていて、学習支援をしようとも一筋縄ではいきません。塾講師時代に出会ってきたいわゆる定型発達の子どもたちに勉強を教えるのとはちょっとだけ違います。

点数だけで子どもたちを見ることは、子どもたちのほんの一部分しか見ないことと同じことです。

空欄で出した回答、勘で書いた回答、考えたけど分からなかった回答、分かったけどケアレスミスをした回答、正答を書き損じた回答…これらはどれも完璧なマルにはなりません。でもどうでしょう、これらを並べてみると、後になればなるほどマルに近づいてるのがイメージできませんか。
白紙から何かを埋めようとしたこと、正答を考えようとしたこと、正答が分かったこと、正答を埋めようとしたこと…バツの中にもレベルがあって、その中でレベルアップしているわけです。

視点がズレている、マルしか見てないから、バツのレベルが見えていないだけなんです。

どれだけ頑張っても実を結ばなければ「なかったこと」になる、この世界はそんな残酷な視点の評価で溢れています。特に大人になればなるほど、それは顕著になっていくでしょう。視点が変わらなければ評価も変わらない、そういう世界で生きていると自分がいつまでもレベルアップしていないように感じるかもしれません。しおりさんが生きて見て聞いて感じてそして終わらせたい世界というのは、これに近しいのではないかと思います。

でも、マルかバツで判断する視点から飛び出してバツのレベルで判断するという視点があるように、自分がどれだけ成長し、進歩し、前進しているかをどんな視点で見るのかも人それぞれです。終わらせたい世界と同じ視点にする必要なんてどこにもないです。

しおりさんは今までとっても頑張ってこられたのでしょう。レベルアップしようという意欲があって、実際にレベルアップをするような行動をしてきたのだと思います。しおりさんの今の視点ではそれはバツかもしれないけれど、僕の視点ではそれをマルだとします。マルでなくても確実にバツの中でレベルアップをしていると判断します。

いつまでも同じことで悩んで世界の景色は変わらないと思うかもしれないけれど、実はしおりさんが感じる世界の色や質感や温度はきっと変化してきたのではないかなと思うのです。しおりさんは確実にレベルアップしています。それはきっと視点を変えればすぐに分かるはずです。

僕にとって成長も進歩も前進も、自分の視点で定義できるものだと考えます。他人が認めなくても自分が認めるならそれで良くて、そしてその視点を変えて自分にとって成長や進歩や前進の定義をしなおすことすらもレベルアップなのだと思います。いつの日か生きているだけで花マルだと僕は言いましたが、人間なんて歳を重ねるだけでレベルアップしていきます。年齢がレベルだとするなら、1年に1回は生きてさえいれば1レベが上がるわけです。まるでログインボーナスみたいに。

しおりさんが自分の手で世界を終わらせる権利もあると思います。この世界の絶望はしおりさんのせいではないです。何らかのハンデを持つ人間に酷く冷たい世界で、未来に期待もできず生きるモチベーションを失うのは当たり前だと思います。それでも、今しおりさんがこの文章を目にできたのは、今までを戦い抜いてきたしおりさんがいたからです。そしてそれは、成長や進歩や前進よりももっと価値がある、人生において本当に素晴らしいことではないでしょうか。

高くジャンプするためには低くしゃがまなければならない、しおりさんは今、その力を溜める期間です。Youtubeで意気揚々と喋るharuも僕の一部分を映しただけにすぎない、僕もしおりさんと同じようにこの世界で生きている存在であるということをお伝えしたいです。

大丈夫、大丈夫です。
しおりさんなら、大丈夫です。

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