見出し画像

拒絶された瞬間気付く恋

彼女は僕に惚れている、と思っていた。

塾講師になってから2年が経った。大学の片手間でアルバイトとして就職した勤務先に引き抜かれ、あっという間に正社員になった。大学はまだ卒業していないが、そもそも通信制の大学に在学しているため、時間の融通はいくらでも効いた。家庭の事情で学費を払うことが難しく、あえなく通信制の大学に進学した僕は、高校はいわゆる進学校に通っていて、当時の全国模試では偏差値70台くらいの成績を叩き出していた。高校時代の成績を買われた僕は、塾講師1年目で大学受験生を任された。今の僕は20歳を迎えたばかりで、19歳のときに初めて担当した生徒は、高校3年生だった。

「先生、遊びにきた」

塾の職員室のドアを開け、彼女はひょこっとこちらに顔を覗かせた。僕が担当していた彼女は、無事に第一志望の大学に合格し、大学生になっていた。高校生だった彼女は、カラスの羽のような麗しい黒色の髪を、いつも紺色のゴムで縛っていた。僕と同じ高校に通っていた彼女は、僕の1つ下の学年で、少し前まで同じ高校生の先輩と後輩だったというのに、塾では先生と生徒という関係になるのは不思議に思ったものである。彼女の家は僕の家と違って、かなり裕福な家庭だということは、その佇まいから分かっていた。進学先の大学は偏差値で考えると、日本で上から5番以内の私立大学で、学費もそれなりだろうと思うが、奨学金を使うことは一切なく、進学したのだという。僕が働いているこの塾も個別指導ということもあり、割と高額な授業料だが、それを物ともしなかったようだった。おかげで僕が担当する授業の数は増え、僕の懐も豊かになった。

僕がいることは、職員室の前に置かれた職員の所在が書かれたボードを見れば一目瞭然だった。僕は授業の合間に、今担当している生徒の授業面談に使う資料を準備していた。パソコンと睨めっこしながら、生徒の現在の成績や授業の進捗状況、志望校の選択についての文章を打ち込んでいた。彼女はふらりと職員室に入ると、丁寧にドアを閉めて、僕に向かって口を開いた。職員室にいるのは、僕だけだった。

「大学の授業、難しいんだよ」

彼女が生徒として此処に通っていたのは、つい最近のことだ。彼女が塾を卒業する最後の授業で、「先生、私これからタメ口を使って話したいと思っているんですけど、良いですか?」と聞かれ、笑って頷いたことがある。他の生徒は年が近い職員に向かってタメ口を使うことも多々あったが、彼女は頑なに敬語を外そうとはしなかった。その反動もあってか、彼女は僕に敬語を外す許可を求め、僕はそれに答えたのである。高校生の彼女を見れば、校則通りに着られた制服のスカートは丁寧にプリーツがかかっていた。ブレザーのボタンがほつれていることもなければ、使われている革靴は磨かれていた。大学生になった彼女は、髪色を茶色に染め、いつの間にかメイクを覚えた。制服を脱いだ彼女は、大学生らしい可愛らしい服を選ぶようになっていた。高校を卒業してから初めて会った時、僕は彼女と連絡先を交換した。彼女は、僕に「ずっと好きだったんです」と言い、僕は「ありがとう」と答え、何かが進展することもないまま、今に至っていた。僕は立ち上がると、彼女がいるカウンターの方へ向かう。

「ちゃんと授業に出てる?」
「もちろん、無遅刻無欠席無早退」

元々根が真面目だった彼女は、周りの大学生に流されることなく、きちんと授業に参加しているようだった。僕は通信制の大学に在学しているので、一限や二限といった感覚はないが、彼女の大学は通学制であるから、きっとそういう出席日数も単位には関与してくるだろう。彼女は僕と連絡先と交換してから、2日に1回くらいはメッセージの交換をしている。僕が忙しくてすぐに返信出来ないときもあるが、大抵は他愛もない一言の返答だった。僕は何度か、彼女に「デートがしたい」と誘われていた。彼女はすでに塾を卒業していて先生と生徒の関係ではないから、確かに付き合うことも可能なのだが、僕は何となくそれを放置してしまっていた。彼女は薄い口紅がのった唇を動かしながら、僕を見て嬉しそうに笑った。カウンターに身を寄せて彼女に近くと、柔軟剤の匂いがした。

「今度、どっか行く?」

以前から彼女から何度も出かけることを誘われていたし、散々それを断っていた僕は少しだけの罪悪感があり、いや、それを帳消しにするための口実ではないのだが、兎にも角にもすっかり大人びてしまった彼女に、僕は、何となく誘ってみたのである。これは半分が本気で、半分は冗談だった。彼女は目をまん丸にして、それから口が半分だけ開いた。僕は慌てて言葉を付け加えようかと思ったが、そんな台詞すら出てこなくて、しばらくの間、僕と彼女だけの空間には、静かな空虚が流れた。それでも彼女は喜ぶだろうと、僕は安易に思っていた。それから言葉を紡いだのは、彼女の方だった。

「いきなり、そんなこと言われても」

てっきり日程を決める方向に話が動くのだろうと思っていたのは、僕のミスリードだった。言葉を放った彼女は狼狽え、そして後退りをした。軽く首を振って、泣きそうな顔でこちらを見る。苦笑いのような、上がりきっていない口角を見せながら、彼女の手はグッと握り締められていた。もしかして、と思ったときには、もう遅かった。僕は、はっきりと彼女に断られていた。「デートがしたい」と誘ってきたのは彼女の方なのに、僕を好きだと言ってきたのは彼女の方なのに、僕がこうして誘ったならば彼女は喜んで受け入れてくれるだろうと思ったのに、これは僕が悪かったのだろうか。人並みに年齢相応の恋愛をしてきたからといって何かを豪語するわけではないが、これは僕が悪かったのだろうか。

彼女は「このあと用事があるから」と、僕に貼り付けられた笑みを見せたあと、職員室のドアを閉めた。僕はカウンターの前で立ちすくんでいた。2日に1回くるメッセージとか、「デートがしたい」とか、「ずっと好きだったんです」とか、彼女は僕に惚れているのではないかと判断するには、十分すぎる材料だったと思うのに、どうやらそれは勘違いだったようで、僕はその愚かさに頭を抱えた。彼女に対する冗談めいた想いは、彼女の断りをきっかけに、本気めいた想いに色を変えるようだった。合格を知らせに来たときに見せた表情、難しい問題が解けたときに見せた表情、模試で良い成績を取ったときに見せた表情、定期テストで思うような点数ではなかったときに見せた表情、僕の頭に彼女の顔がさらさらと過ぎっていった。僕は、過去の僕を振り返った。彼女の感情を、彼女の気持ちを、僕は放置していたのだろうか。彼女との関係を、僕は放置していたのだろうか。本当に、僕は放置していただけだったのだろうか。

それは、「放置」という名の「見ないフリ」だったのではないだろうか。

ひゅう、と背後の窓の外で、風が吹く音がした。授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。僕は、足を動かせないままでいた。

拒絶された瞬間気付く恋

頂いたお金は、アプリ「cotonoha」の運営に使わせて頂きます。