2020/10/14読書メモ
『人が人を裁くということ』小坂井敏晶②
司法への市民参加と民主主義には深い関りがある。裁判は、時の権力争いや階級闘争の結果に左右される極めて政治的な行為。
ちなみに、民主主義的に選出された国会議員が正当な手続きを経て制定した法律でも、気に入らなければフランス人は無視し、あるいはデモやストライキによって覆す。その背景には、議会制手続きの遵守ばかりが民主主義を支えるのではないという政治感覚がある。
(選挙もその時々で左右される政治的行為だからか?多数派が選挙制度を自分たちに有利なものに変更してしまうことは可能で、実際、今の日本の小選挙区制はそうだ。1票の格差も各地で違憲(状態)とされながら解消しない。)
殺人・強姦など重大な犯罪は、私的な罪だけでなく、共同体全体に関わる脅威を意味する。共同体秩序への脅威に対する反応が刑事裁判。告発主体は被害者や遺族ではなく、共同体を体現する国家。検察官は被害者の代理人ではなく国家の代理人(attorney at law)。
なぜ市民が裁くのか。犯罪を裁く主体は誰か、正義を判断する権利は誰にあるのか、これが裁判の根本問題。誰が正しい判決ができるかではなく、誰の判断が正しいと決めるか。人民の下す判断が真実と定義する。
(陪審員・参審員・裁判員といった制度の本質はここにある。)
職業裁判官ならば誤判がありうる。いっぽう人民の判断は定義上、必ず正しい。
しかし、この教条が障害となり、フランスでは、職業裁判官が裁く軽犯罪は控訴できるが、陪審員が裁く重罪裁判は控訴が認められなかった。1981年に死刑が廃止されたが、それまでは死刑判決でも控訴できなかった。
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