1人何役もしない!
学生の時から人には言えずによく1人で悩んでいたことがある。
相手にとって自分が完璧でありたい。ということ。
そして、それを目指す過程で非常に疲弊するということ。
「完璧」というのは、私1人で複数人の友達パターンを攻略すること。
友人達は同じ雰囲気を纏う子もいれば、全く違う性格の子もいる。十人十色。
誰一人として同じ人はいない。
だからこそ、話を聞いてもらいたいときは、否定せずに話を聞いてくれる友人Aに。
答えを出したいときは、解決能力の高い友人Bに。
なんだか今日は馬鹿みたいに騒ぎたいなぁなんてときは、遊びの天才友人Cに。
求める友人が違ってくる。それを無意識にやっている。
その友人の特徴、性格、らしさが代名詞となって私の中に保存されている。
自分はそうやって人を選んでいるのに、いざ自分のこととなると上手くいかない。
頭では理解しているのに、それぞれ友人A的要素も友人B的要素も友人C的要素も私一人でカバーしたいと思っていた。オールラウンダーやカードのジョーカー的存在。つまり、「完璧」でありたいと。
だから、他の人に話せるけど私には話せないことがあるとわかると影で嫉妬した。
私以外に仲の良い子がいることを知り、涼しい顔をしながら嫉妬した。
相手を独占したいというわけでは決してない。ただ、私一人でオールマイティーに対応できる人でありたかった。し、それは努力で叶うものだと思っていた。
ジョーカーになろうとすることは、今思えば、自分の首を苦しめる行為であったと思う。
その努力で得るものより、失うものの方が大きかったから。
AもBもCも全て網羅するには、個性を捨てることだった。
全てが平均点だと、私という人間が霞んでいくような気がした。
「突出したもの」=「個性」
突出とまでは言わなくても良いか。なんていうか、人としての偏り。
グラフでいう屈曲する部分。
私のグラフが満点、緩やかなものだと言いたいわけじゃない。
私自身が実際どうであるかが重要なのではない。
ただ、オールラウンダーでありたい、完璧でありたいと思った時から間違った道を進んでいたんだな。と今日この頃思うのである。
理想の完璧に習うように、自分の気持ちに蓋をした。
「完璧」な人はどうふるまうのだろうか。
人の誕生日を誰振り構わずカレンダーに記載して、忘れないようにリマインドまでして連絡することなのか。
愚痴を吐く人が気分を害さない為に、同調して話に乗ることなのか。
そんなん、私の言動は血の通わないロボットとさほど変わらないのではないか。
癖や習慣てものは物凄くて、なかなか溶けてはいかない。
自分の気持ちが自分でわからないなんて、みんな笑うだろうか。
偏りすぎて、平均台の上から落ちてしまっても構わないじゃないか。
痛くて泣いてしまうのではないようだ。私にも個性がちゃんとあるんだと泣くんだろうな。
演じなくて良い。1人で何役もしなくて良い。
別の役にはちゃんと他の人が配役されている。
私は私という役をこれから精一杯演じれば良い。それだけ。