水色のランドセルが欲しかったはなし

ランドセル、いま色んな色があるじゃないですか。あれ、凄くいいなって思う。

わたしは赤いランドセルを背負って通学していた。当時、わたしは赤やピンクなどの所謂「女の子」の色が好きではなかった。水色の帽子をかぶって兄のお下がりの服を着て小学校は過ごしていた。男の子になりたかったわけではない。お下がりも本当は嫌だった。でも、スポーツメーカーのロゴが入った黒や青のトレーナーの代わりに、わたしはなにが着たかったのだろうか。

可愛いものは好きだ。
クラスメイトがブランドものの白いフリルのブラウスや、パステルカラーのスカートを身につけている姿を見て羨ましくもあった。ただ、それは「自分が着たい」ではなく「可愛いものを手に入れたい」という欲だった様に思う。
わたしは可愛いものを身につけた自分の姿が受け入れられなかった。似合う似合わないもあるが、どうしてもちぐはぐに思えて仕方ない。精神も身体も女である、という認識はあるし、可愛い物やお洒落なものを欲しい、という欲はあった。ただ、それを身に付け、鏡に映る自分の事が受け入れられない。この歪さは何処から来るのだろう、と長年疑問だった。この「女性として象徴させるようなものを身につけることを避ける」ことは最近まで引きずっていた。

酷く古く偏った考えなのは百も承知だが、わたしは「須く総ての女性はみんな可愛くなりたいと願い、実際に可愛い生物である」という考えを持っている。それが、生まれ持った才能か、努力の賜物か、の差はあれど、可愛い、は女性ならば誰しもが持つものなのだ。可愛い、イコール「女」である。この「女」には様々な意味が含まれている。
その中のひとつが、社会的な「女」だ。
これは世間や文化がつくりあげた、いわゆる「女なんだから」の呪い。女なのだから「優しくなりなさい」「我慢しなさい」「耐えなさい」「ひっこんでなさい」「気遣いできるようになりなさい」「家庭に入りなさい」。もっと正確に言えば、そう定義されているのではないか?と私の偏見で構成された理想とする「女」の姿だ。

わたしが受け入れられないのは、この「女」であり、その象徴が「女の子だから、可愛いピンク好きでしょう?」なのだ。

この可愛さを纏わなければ、わたしは女ではない何か、で、女でないのなら、義務や呪いを背負う必要がない。資格が無いのだから、権利も義務もない。痴漢や男尊女卑、女性差別もどこか他人事のように思っていた。何故ならわたしはそういったところに内包される社会的な「女」属性を持っていない、という、意識があるからだ。
しかし、いくら意識上は女を拒否していたとしても、世間からすればわたしは女で、それに伴い、心無い言葉や行動を受ける事はある。その度に「私だったから良いけど、ほかの女性だったら怒ってたろうな」と薄ぼんやりやり過ごしていた。

この問題はわたしの中で根が深い。
「女」である事に違和感を持ち、拒絶すればするほど、さらに「女」であることを意識させられる。誰に頼まれたわけでもないのに、自分の中で作り上げられた「女」の理想像に苦しめ続けられる。女性でいることにコンプレックスを感じ続ける。

もう、このご時世で「女性はこうあるべき」や「女性は虐げられている」なんて古い考えなのは理解している。けれどふとした瞬間に表面化する無意識の差別には閉口する。
本当は「私だったから良いけど」なんて1ミリも思っていない。「私が女性だから、不快に感じる」のではなく、「わたしが、不快に感じる」と怒らなくてはならない。嫌な思い拒否する理由なんて「私が嫌だと感じたから」以外の何物でもないのだ。

いまは、自分が自分である事を受け入れられる様になってきた。「わたしは女性である」ではなく「わたしがわたしという個人である」と立っていられる。

カラフルなランドセルを見るたびに、自分に似合うものを選び取れる良い時代になったなぁと思う。女の子だから、男の子だから、なんて思わずに、自分の好きな色を手にとってほしい。

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