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河井寛次郎とワンネス

今、河井寛次郎の文章を読んでいます。
アトリエシムラのオンラインゼミ「民藝を深める」がきっかけで、『火の誓い』や『蝶が飛ぶ葉っぱが飛ぶ』を読み始めました。

河井寛次郎ってどんな人なんだろう…
というか、そもそも誰なの…

柳宗悦の名前しか知らなったわたしには、
こんにちは。はじめまして。の人、河井寛次郎。

その文章に触れて、
その世界観に触れて、
わたしと感性が似ている人なのかもしれないと…
いえいえ、なんともおこがましい…
メンターとして弟子入りしたい
と思わせるぐらい魅力的な意識の持ち主でした。

今どきの言葉を使えば
非常にスピリチュアルな人で
かなり高い位置からものを見ている人です。

すべてのものは
自分の表現

河井寛次郎の言葉

この言葉を読んだとき、
河井寛次郎という人が分かったような気がしました。

座右の銘としては、「自分は何か」。常に自分自身ととっくんでいます。これは、利己主義という意味ではありません。自己を通じて、しかも自他のない世界に至りたいと願います。

「機械は新しい肉体」

そして、この言葉で、
河井寛次郎の中にワンネスという感覚があることを確信しました。

わたし自身も常に「自分は何か」を問い続けてきたようなところがあって、最近ようやく、わたしが求めているのは「個」の確立ではなく、「全体」への回帰ではないかと思っていたところです。それは「有」から「無」への回帰とも言えるかもしれません。そして、その「無」こそ、あらゆるものを内包している状態であって、決して「虚」ではないということ。

河井寛次郎は「ギリギリの無分別」ということを言うんです。
「ギリギリの無分別で作ったものが、一番あきない」と言うんです。
これってどういうことだろう?

うまく説明できるか分かりませんが、
自分という個性をギリギリまで残す、つまり、ギリギリまで自分を消していくということなんじゃないかと思うのです。

人に好かれるかどうかは知りませんが、自分の好きなものを自分で作ってみようというのが、私の仕事です。そういう際に表現されるぎりぎりの自分が、同時に他人のものだというのが自分の信念です。ぎりぎりの我に到達した時に初めて、ぎりぎりの他にも到達します。自他のない世界が、ほんとうの仕事の世界です。

「機械は新しい肉体」

自分が完全になくなってしまったら、何かを作ること、何かを表現することはできません。だって、この世界には、見られる客体と見る主体が必ず存在するからです。

じゃあ、「ぎりぎりの自分」ってなんでしょう?
なんとなく、「魂」とか「ハイヤーセルフ」という言葉が浮かぶんです。

地上に肉体を持つ私以外の私がいるとしたら、、、
もうひとりの自分がいるとしたら、、、
それをある人は魂とかいい、ある人はハイヤーセルフとかいうでしょう。

そのもうひとりの自分がワンネスという状態を良く知り、自他のない世界に非常に近いところにいるのだとしたら、、、

そしてそれが自分の本体だとしたら、、、
これが「ぎりぎりの自分」ということなのかもしれない。
確信を持てないまま、ただ何となくそう思うのです。

地上にいるこの私はそのことに気づき、本来あるべき状態=自他のない世界へと戻ろうとすることで、この生を存分に活かすことができるのだとしたら、、、「ぎりぎりの自分」は決して追い込んで尖った自分ではなく、ふんわりとあたたかく光のように軽いものなのかもしれない。

悲しんでいてもしんそこは喜んでいるものがいる 怒ってい
てもしんそこは喜んでいるものがいる―何だ何だこれは何者だ

生命は怒りや悲しみや苦しみでは―そんな外側のものではどうする事も出来ない、意識の下層部にいる生命はそんなものではかすりきずさえも付ける事は出来ない、生命はどんな事が起こっても喜んでしかいない、だからこそ生命は生き切るのだ、生命が不死なのはそのためなのだ、人が喜ぶとひとりでに楽しくなるのは内にいる生命の本体となる喜と合体するからである。

「いのちの窓それ以後」

魂レベルの私はただ喜びの中にいます。
だって、この地上に「経験」をしに来たのだから。
どんな経験も喜びでしかない。

地上にいながらもその喜びの中に身を委ね、表現できたとするならば、その作品はきっと普遍性帯びるのでしょう。だから、あきないのでしょう。

河井寛次郎の作品に触れた人たちが心を動かされるのは、その技巧だけではなく、みんながすっかり忘れてしまっている自他のない世界への帰り道を呼び起こすからなのかもしれません、、、

思い出せそうなのに思い出せない、そんなワンネスという魂のふるさとを河井寛次郎はとっくにもう知っていたのかもしれません。

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