点滅する裸の命
昨日、六花ましろさんの引退公演に行った。
本当に美しい人だ。指の先、その微妙な角度、些細な動きの一つひとつまで、一寸の隙もなく美しい。木蓮がその白い花弁を綻ばせるかのような微笑み、掴みがたい、こぼれていくような美しさ、白い、美しい、白さ。浅い夢のようで、焼き付けるようにこの目でたしかに、たしかに見たはずなのに、その姿を忘れてしまう、そんな儚さ、惹かれた心が残り香のようにまだ、ある。これから先も、ずっとある、ずっと、あり続けるだろう。
記憶というものの儚さ、頼りなさ、うらはら、あらかた忘れてしまうからこそ忘れないものの強さ、確かさ、忘れない、あの感情の残像、網膜に影のように張り付いて離れない。
元来、表現という行為は、「記録」という行為と切っても切り離せないものだ。そう考えるのは私が言語表現、特に文字での表現を行っているからだろうが、現代において、物理的に残すことのできない表現というものはほとんどない。音楽も演劇も「生」のよさ、ないし「生」でしか味わえないもの、というものはあれど、録画や録音などによって記録することはできる。文字は人に何かを伝えるものである前に、何かを残すためのものである、その性格上、表現をした瞬間それは記録も同時に行っていることになる。人間がはじめて意図的に残そうとし、残すことに成功したのが文字だ。「書く」とは、その行為自体が「残す」という行為でもある。
しかし、現代においてもストリップは残らない。
物理的に残すことは可能だが、劇場において写真や映像に記録することは禁止されている。カメラ・携帯電話・スマートフォンを取り出すことも禁止だ。ストリップ、それ自体は記録に残らない。
そして記録できないということは同時に拡散しないことを意味している。基本的には劇場に足を運んだ人しか、その内実は知りえない。だからストリップはガラパゴス化するのかもしれない。その世界は狭く、深い。
ましろさんは最後の挨拶で、ストリップは花火のようだ、と言っていたけど、その刹那、それは記録されない、記憶にしか残らない命の煌めき、拡散されないからこそそこに詰まった現実の濃ゆさ、暗く淫靡にきらびやかで、どこまでも過剰だ。文字をやっている限り、こんな風には輝けないだろう。文字にそのような刹那はない。自分の身体的・時間的限界を超えたいという欲望が形となった、文字はその存在自体が強欲だ。記録すること、拡散することを前提としている。だから、その光を羨ましいと思うことすら烏滸がましい気がした。
ストリップの「性」は「生」であり、どこまでも裸の等身大だ。愚直なまでに今・ここ・私しかない、その強さ、儚さ、今・ここ・私、その点的な「しかなさ」は点滅する、命は点滅する、私はその「点滅する裸の命」を確かに見たのだと文字にすることに、どれほどの意味があるのかわからない。