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ひるがお
辺境ノンフィクション作家の高野秀行や鉄道系YouTuberの西園寺などを見ていると、気力・体力、そしてそれに基く行動力があり、とにかく楽観的で、向こう見ずなぐらいであり、けれど決してバカやアホの類いではなく、茶目っ気のようなものがあり、人によく好かれる、地元の人や業界関係者に対して敬意を忘れず、訪れた地の言葉や歴史を勉強する真面目さも持つ、こういうタイプの人間の美徳、その比類なさというものをひしひし感じる。私の人生にはつい最近まで出てこなかったタイプの登場人物である(もちろん彼らと直接の知り合いではない)。
まずもって、私は最近まで「とにかく常時機嫌がいい」ということの価値を分かっていなかった。これは何にも変え難い素晴らしい美点である。生活や旅、仕事などではとにかく役に立つ、つまり人生においてあまねく役に立つ。彼らが常時機嫌のいい人間なのかは流石に分からないが、少なくとも本当にすぐ機嫌が悪くなる人間ではないことは分かる。本当にすぐ機嫌が悪くなる人間というのはそこら中にいて、私もどちらかというと完全にこちらのタイプであるが、それはそれは最悪である。自分の思い通りにならないことを面白がれる人間は強い。私は最近反動でそういうタイプの人間に惹かれて仕方ない。岸田将幸が「狡猾な若気と厚かましい繊細さを命がけで終わらせようと決意した」と書いていたその意味の重みというのが加齢に伴い私も身をもって実感できてきた、ような気がするんである。
私はやっとこの5、6年で今までの自分とは違うタイプの人間とも付き合うことができるようになってきた。どういうタイプの人間かというと、薄暗さを感じさせない人間ということである。どちらが鶏か卵か分からないが、それと同時に自分の隠されていた陽の部分がより強く出てきたように思う。世の中にはもっと自分とは違う、正反対の人間がいて、いつかそういう人間の良さも分かるようになり、好き好んで付き合うようになるのかもしれない。人間としての人格の広がりのようなものを感じる。
と思う一方、私が言っているのって結局「育ちの良さ」じゃないか、という気もしてしまう。高野秀行や西園寺らは随所随所に育ちの良さを感じさせる。エピソードでそう感じるのではなく、言動の節々に感じるのである。かなり読んだしかなり観たが、私、およびかつて私の周りにいた人たちのような明らかな屈折が見受けられない。育ちの良さや健やかさは滲み出る。それはもう取り返しがつかないのはもちろん、ほとんど選べる余地もなかったことだ。そういう類いのことに人の本質を見い出すのは、四方八方誰にとってもしんどさがある。
昔話に虐げられた悲しみの 愛は蠢きやがて 窓を突き破り 月も夜も裂いて ぶっ飛んだドキドキをくれるよ
ぶっ飛んだドキドキのあとが問題なんだよなと思う。思わざるを得ない。ぶっ飛んだドキドキとドキドキの間の長い長い幕間をどう繋いでいくか、そしてドキドキの断続的な連続ではない(それは繰り返せばもう単調である)、もう少し展開のある何かを長い目線で描いていかなければならない。生活と人生。
呪いは治らない。いくら私がここ数年元気に暮らしているからといってこの先も生まれ変わったように精神の不調とは無縁で暮らしていけるとは限らない、というかそんな訳がない。そんな万が一に期待すれば不幸になるだけだ。自分の背負っている業を理解し、それを引き摺り回してできるだけ遠くへ、遠くへ行くこと。自分には許されなかった人生と人格に素直に感動すること。治らないことは呪いでもあり救いでもある。魔法が効かない間も呪いは解けない。治った!良くなった!と言う人を前に、治ってはないんじゃないかなとは言いづらいが、そんな辛い期待をするから突き落とされるのではないか、何度もバカな期待をするその愚直さというか何というか、何とも痛々しいんである。