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我々は自己実現のために働くのか

最近、平日は特に疲れすぎていて、それはつまり主に仕事のせいなのだが、問題は仕事量や長時間労働ではなく、論理も倫理もない広告業界の連中であり、ただただ胸糞が悪いだけなので詳細は割愛するが、そういったことで心労が重なり、怒りで血液が逆流、床に就いてもかっかかっかと内燃機関は憤りに燃え深夜に心臓の鐘を必要以上に鳴らしまくる、そのような始末であったので、本屋で徐に手にした『一個人』、年配の方向けの実用誌であるが、その11月号、「47都道府県 至福の温泉」を開き、一枚、二枚、捲ると目に飛び込んできたこの文章に、尋常では考えづらいほど感銘を受けてしまった。

温泉?あんまり入らないね。
湯守の仕事に楽しさもない。
ただ、責任を持って温泉を届けるだけ。

温泉があるから、ここは"岳温泉"。
温泉を絶やしてしまうと、ただの"岳"になってしまうからね。

社会的通念として、仕事の第一目的は"自己実現"ということになって久しい。働くのは会社のためでも家族のためでもなく、まず自分のために働くのだ、それも自分の目前にある生活ではなく、人生として、長い目で見た"キャリア"のために働くのだ。だから最近の会社は「会社のために働け」とは言ってこない。会社の利益とあなた個人の利益が合致する限りにおいて我々は手を取り合おうではないか、といった感じ。随分下手に出ている。昭和から平成、平成から令和になるにつれ、雇用主と非雇用者の関係はかなり変わったんじゃないかと思う。被雇用者、つまり個人が強くなった。それだけ聞くと我々にとってはそれほど悪いことではないように聞こえるが、一方で、会社のために働くという分かりやすい建前が消えたため、あらゆる場面で個人の内面が公の場に晒されることとなった。ただ仕事をちゃんと熟すだけでは足りず、その先に何を目指しているのかが問われ、年度ごとに目標を立てさせられ、その達成度を元に評価が行われ、給料に反映され、キャリア面談という社会人版の進路面談みたいなものまで行われる。日本の一般企業はもはや学校であり、過保護な親のようなウザさと害悪さを呈している。個人個人が希望するキャリアの方向性に合わせて仕事を采配してくれるというのは全く結構なことだが、私がどういう人生を送りたいかなどといった至極個人的なことを会社にわざわざ伝える必要は果たしてあるのだろうか。私は去年のキャリアデザインシート(私の会社にはそういうものがある)にゆくゆくはクリエイティブ・ディレクターになりたいというようなことを書いた。この仕事を仮に続けていくんなら、末端でずっと作業しているだけじゃ食っていけないだろうし、まあそういった方向でやって行った方がいいんだろうから、とりあえずそう書いておこうか、それくらいの気持ちで書いた。別に嘘ではない。でも本当でもない。「仮に広告の仕事を続けるなら」というだけで、本当はそもそもそんなに長く続けたいとは思っていない。でもそんなこと書いてもしょうがないだろう、というか、そんなことはわざわざ会社に伝えなければならないことではない。ところが、局長との面談でクリエイティブ・ディレクターになりたいんだろみたいなことを言われたとき、私は「は?」と言いそうになった。言ってはない。たぶん。そこでやっと気づいた。私は全然クリエイティブ・ディレクターになんかなりたくなかったのだ。なので今年は一文目に「40歳までに広告の仕事を辞める」と書いた。これなら40才までにこの仕事辞めるんだろと言われてもはい!頑張ります!と答えられる。

仕事は個人の自己実現のためにするものであるから、YouTubeの有名なコピー「好きなことで、生きていく」に象徴されるように、我々は好きなことを仕事にすること、最低でも仕事を好きになること、仕事を楽しむことを強要されている。そんななか、岳温泉の湯守の言葉はそんな時代の風潮に真っ向から反している。好きでもない、楽しくもない、ただ、自分という個人を超えた"岳温泉"のために働くだけ。私は結局仕事ってこういうことなんじゃないかと思ってしまったのだが違うだろうか。

それは書くことも究極同じだ。好きだから書くとか、楽しいから書くとか、書かなければ生きていけないから書くとか、読者のために書くとか、自分のために書くとか、そういったこと以上に重要なのは詩のために書くということなのではないか。詩が詩であるために書く、言葉が言葉であるために書く、岳温泉の湯守が岳温泉が岳温泉であるために温泉を守るように。それはサリンジャーの言う「太ったおばさん」とも重なる話な気がする。

いずれにせよある夜、番組に出る前に、僕がひどくつむじを曲げたことがあった。僕がウェイカーと一緒にまさに玄関を出て行くとき、シーモアが僕に靴をきれいに磨くようにと言ったんだ。それで僕は頭にきちゃったわけだ。スタジオの観客なんてみんなうす馬鹿だ。アナウンサーだってうす馬鹿だ。スポンサーもうす馬鹿だ。そんな連中のためにわざわざ靴を磨き立てるなんてごめんだねと、僕はシーモアに言った。それにだいたい連中の座っている位置からは僕の靴なんて見えやしないんだ。でもとにかく靴は磨くんだ、と彼は言った。お前は太ったおばさんのために靴を磨くんだよ、彼はそう言った。何のことを言っているのか、僕には理解できなかったけど、彼は例のあのきわめてシーモア的な表情を顔に浮かべていたので、僕は言われたとおりにした。太ったおばさんっていうのが何を意味をするのか、彼は説明してくれなかったけど、それ以来番組に出るたびに、とにかく太ったおばさんのためにせっせと靴を磨いた。君と二人であの番組に出ているあいだ、ずっとそうしていた。君は覚えているかな? 磨き忘れたことはたぶん二回くらいしかないと思う。そしてその太ったおばさんの姿が、僕の頭の中にものすごくくっきりと、鮮やかに形作られた。そのおばさんはね、一日中ポーチに座って、蠅を叩きながら、朝から晩まで馬鹿でかい音でラジオをつけっぱなしにしているんだ。その暑さたるやすさまじいもので、彼女はたぶん癌を抱えている。そしてーーどう言えばいいんだろう。とにかく、シーモアがどうしてあの番組に出る前に僕に靴を磨かせたのか、はっきりとわかった気がした。それは筋のとおったことだった。

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