勝手に苛まれ続ける
死にたくなったり、自傷したくなったりするその契機について、私は最近、自己肯定感が下がると死にたくなったり、自傷したくなると、つまり死にたくなったり、自傷したくなったりする契機には、大きく自己肯定感が関わっていることを知った。「死にたくなったり、自傷したくなったり」という重複がやたら多いのは「死にたくなったり、自傷したくなったり」と書くことで、死にたさと自傷したさを発散しようとしているからである。それはまあどうでもいいのだが。
自己肯定感が下がることが結果的に生じるイベントというのは実に気軽に、どうしてもカジュアルに起こり続ける。そんななか、私が頭を抱えているのは自己肯定感を高めるイベントのなさである。少なさではない、なさである。
もうここからはほとんどが特定個人に対する嫌味、というか誹謗中傷なのだが、ほんとに、モテることが自己肯定感を高める契機になるという人が羨ましい。はっきり言ってめでたいなと思う。モテたりしてもいいことなどまったくない。本当にモテたことはないので本当のモテを分かっていないと言われたらそれまでだが、私が激しく嫌なのはモテたりなんかすると自分のパーソナルスペースにずかずかと踏み入られグチャグチャに掻き回されるだけ掻き回されて捨て台詞なのかなんなのか知らないが暴言を吐かれまくってそれでも私が悪いらしい文脈の中でいや私も普通に人並み以上には傷つくよとなるだけであること、なのである。物凄いブーメランだ。読み返さずとも分かる。つらい。人を好きになった際に自分も、自分が好きでも何でもない人にされたら死ぬほど嫌なことをしまくっているということ。私ほどパーソナルスペースなるものに過敏な人はそうそういないと世界に対して極めて好意的なというより自己中心的で利己的であるそんな解釈を施したとして、どうしようもなくこれはブーメランでしかありえない。モテたくない。モテたとして寄ってくるのは数多くの女性に好かれることで自己肯定感を爆上げしようとかセックスをして快楽とやはり自己肯定感を得ようとかそういった自己中心的な目的で近寄ってくるハエのような男性ばかりなのだ。私自身の価値の低さが露呈する。自己肯定感が下がる。勘弁してほしい。まあときたまそのような男性に自ら引っかかり惚れ切ってしまっている事実もあるのだが。それだってつらい。そのとき好かれているのはもちろん私本体ではなく私が保有しているマンコに興味があるだけなのにもちろんそうだと言って近づいてこれる人間はほぼいないのでその口先のレトリックに騙されてしまってまんまと好きになっている自分の愚かしさよ。救いようがない。
つらつらいい歳して馬鹿な十代のようなひとりよがりを書きまくってしまったが、私はどうすれば自己肯定感が上がるのか未だに分からずとてもつらい。仕事など今のところ自己肯定感が下がる一方で滅法ダメ、向いていない。人に褒められても主に辛くなるだけ。私的な文章のことだけは別だが、文章のことを褒められると呆気なくその人のことを好きになってしまう。褒められ慣れてなくて本当に恥ずかしい。そしてそれはそれで死にたくなる。相手がそんなつもりではないのは明白だ。どんなつもりでもそんなつもりではないのだ。また、優しくされるのもダメである。これも呆気なく好きになってしまう。優しくされ慣れてないとかいい歳してマジで厳しい。死にたい。で、大体「特段優しくしたつもりはない」などと言われてそうか、そうだよね、と本当に傷ついてしまい立ち直れなくなる。よくある話だ。
また余計なことばかり書いたが、自己肯定感はどうやったら上がるのだろうか。常に喫緊の問題である。べらぼうに高い自尊心と底を這う自己肯定感のアンバランスさは非常に不健康な様相を呈している、自覚はある。どうにかできるならどうにかしたいとも思う。でも専ら卑屈さにダメ押しをする出来事ばかりだ。もうこの卑屈は治らない。一生この自己肯定感の低さに苛まれ続けなければならない、そう思う。