「作品と向き合う事」に向き合ってみる~作者の言葉は今すぐ捨てろという話~【7510文字】

 みなさんは漫画やアニメ、ゲーム、小説や映画などの物語作品は好きですか?私は好きです。
理由を語るのは難しいですが、それこそ「言葉では表現し得ない魅力があり、しかもそれぞれが絶対的な唯一性を持っているから」のような気がします。
ではみなさんは人と物語作品の話をするのは好きですか?私は嫌いです。
理由は簡単で「さも作品の話をしているかのように作品外の話をする人が多く、この手の会話の満足度があまりにも低く不快度が極めて高いから」です。

 作品の話をする時、作者の言葉を絶対のものだとし、それを引用して語っている人をよく見かける気がします。
「これは〇〇をテーマとして描きました」
「実は裏設定ではこうなっているんです」
このような言葉ですね。
なるほど。だから何?って感じです。
確かにそこれらの言葉を前提に見るとまた何か新しい発見や感動が生まれるのかもしれません。
が、その行為は最早作品そのものを見る行為ではなく作品を通してその言葉を確認する行為に堕落しており、この時作品鑑賞を行っているのはあなたの意思ではなく作者の言葉に従ってるだけの奴隷です。
これは計算の解答を見てから計算式に取り組むようなもので、計算を解く訓練なのであればその取り組みが必要な場合も多々ありますが、ここで問題となるのが作品の鑑賞とそれに伴う解釈に解答や正解は存在しないという点です。
つまりこの行為というのは「誰かが用意してくれた言葉をただただ鵜呑みにし、主観としてどういう作品なのか、主観として何故感動するのかを知る・探る事を放棄している」ものでしかないと言えます。
先に一度断っておくと、作者は断じて作品の神ではありませんし、神だと仮定してみたとしても“あなた自身が作品やシーンをどう感じるか“を指定出来るような存在ではありません。
何が言いたいかというと“誰かから見てではなくあなたから見てこの作品は何なのか、そしてそれによってあなた自身はどう思うのか“で作品を語りませんか?というのがこの記事の趣旨です。



作者が作品の神ではない理由

 以下はあらゆる作品に対しての言及ではありますが、便宜上
作品を生み出す人=作者
作品を鑑賞・解釈する人=読者
という言葉をそれぞれ用いています。
また、「神」という言葉の定義が曖昧なので、ひとまずこの記事では「作品に対して絶対的な意見を持てる者」として扱っています。

作品の本質は作られる事ではない

 最初に挙げたような作者の言葉が絶対でない理由を理屈から説明してもピンと来づらいと思うので、まずは例を挙げる事で感覚的にアプローチしてみます。

例えばこれが料理の場合
シェフが「甘辛い味付けで魚を使いました。どうぞ召し上がってください」と言ったとして
実際に食べたあなたが「う~~~~んこれしょっぱい系だし鶏肉じゃない?」と思った場合、それでもこの料理が甘辛い魚料理だと思い込む事は難しいでしょうし、そうする必要性も低いはずです。実際に味わったあなた自身がそう感じたのですから、それを放棄する理由も他人の感性を借りてくる必要もありません。
Twitterにも「今日行った店。シェフが甘辛魚料理つって出してきたものが完全に塩漬けのニワトリちゃんでワロタ」と自分の味覚を優先して書くのではないでしょうか。

あるいはもっとシンプルに「味見したけど美味しいよ!」と言われて出されたものが自分的には微妙だったというパターンもありそうです。
(やっべ~~~どう反応したらいいかな~~~~)となった経験を実際に持つ方も居るでしょう。
これもやはり(作った人がそう言ってるんだから自分の味覚はおいといて美味しいに決まってる!)となるよりは(作った人的にはそうなんだろうけど、個人的には微妙だなぁ……)となってしまうのではないでしょうか。

このように、既にそれがひとつの個として完成しその手を離れたものの本質は、制作者が何と言おうと“どう作られたのか“ではなく“どう受け取れるのか(どう解釈出来るのか)“だと言っても過言ではありません。
であるならば、にも関わらず“自分はどう感じたか“を放棄して別の人がどう感じているのかを持ち出して作品を語る行為になんの意味があるのでしょうか。
これを再び料理店で例えるなら、店に行き、料理を食べたのにも関わらず公式サイトに書いてある文言やシェフの言葉から感想を引用しているようなものです。めちゃくちゃアホじゃないですか?
作った人の「こう作りました」って「自分がどう受け取ったか」に比べたらどうでもよくないですか?
個人的な感覚でもっと言わせてもらえば「ちょーおいしかった!」「びみょーだった!」の一言の方ですら本人から出た感想である分、他人の意見を引用しただけのものとは比べる事が出来ないと思うくらいの差があります。


「作者の言葉」という概念は存在しない

 上の項目で言った事に関してもう少し補足をさせて貰うならば、個人的には「これは〇〇なんです」という作者の言葉を何を根拠に信じているの?という疑問を抱かざるを得ません。
それは本当に作者が心から思っている事なの?その文言は直接聞いたの?掲載雑誌やサイトがニュアンスを歪めてたりしてない?そもそもその人って本当の本当に作者なの?
これら全てにイエスと答えられるのは作者本人だけでしょう。そして作者が「間違いなくこの作品で示された事は自分の意図と合致している!」と声高に叫ぶ時、それはもう「自分の感性でその作品を解釈(この場合再解釈かもしれないが)した1人の読者でしかない」のです。
作品に対して解釈を行って自分の中の何かと照らし合わせる行為は読者の所業なので、作者が作品外で作品についての言及を行う事そのものが既に読者の立場から行われていると言えます。
もう少し嚙み砕いて言うならば、作者の作者としての作品との関わりというのは、"作品を生み出しているその瞬間でのみ"発揮され、それ以外の一切の状態では作品と作者という関係性は存在し得ません。

故に「作品への解釈を述べる作者の言葉(神の言葉)」というものはそれこそ文字上でしか、言葉上でしか存在しない概念なのです。


解釈において作者は作品を良く知る読者でしかない

 でも実際に作者という言葉はあるし、じゃあ読者にとっての作者って何なんだよという疑問が出てくるかもしれません。
作者というのは今回取り扱っているような"解釈"という面から見るのであれば、読者と何も変わらない存在でしょう。そして現在広く使われる「作者」という言葉は作品に対しての社会的な責任とたくさんの権利を背負う者という意味合いを強く持つものに感じます。

作品を誰かに評価して貰う権利
それを喜ぶ権利
それを苦しむ権利
「作品を生み出してくれてありがとう」と言われる権利
他にも様々な権利があるでしょう。



更に作者にとっての作品、つまり創る視点からの話をするならばそれは自分の一部に形を与えた分身みたいなもので、その分身を作り出す際の高揚も、苦悶も、喜びも、興奮も、あらゆる過程は作者だけが持てる作品との秘密とも言えるので、この秘密を得られるのも作者の権利なのではないかと思います。


作品を解釈するという事

 「じゃあ作者の発言が読者の立場から行われているものだとして、とは言え作品をよく理解しているである読者(作者)が行う解釈と素人である自分の解釈だったら前者の方が正しいんじゃないの?」
と思われる方がいるかもしれません。
この考えはある意味では正しいでしょう。作者は作品に最も向き合った人物と言っても過言ではなく、ほとんどの場合は描写に込めた意味、言葉の1つ1つの重み、あるいは純粋に物語の流れ、論理的な構造をよく正確に把握している事でしょう。
しかし大前提として、解釈に正解はありません。
再び料理で例えるならば、解釈とは「調理過程や素材、味付けを答えよ」というものではなく「美味しいかどうか」「どんな感想を持ったか」なので、あらゆる感受が許容されているはずです。
なのでそれが作者と違っても、他の人と違っても、あるいは同じでも、全く問題ないのではないでしょうか。"あなたにとって"その作品がそう感じられたのであれば。そして論理的な構造の理解を深めたのであれば。
なんなら作者が意図していなかった魅力や、意図されなかった意味合いに気づくかもしれません。同じポイントに同じ形で注視していてもあなただから発見出来た何かがあるかもしれません。
そして逆に、作者や他の誰かの言葉を鵜呑みにして作品を見る事はその"あなたにとって"を消失させかねない行為だという事も付け加えたいものです。


作品外存在について

  • 作品は解釈される事こそが本質だという事

  • 完成した作品に対する作者は読者の一員でしかないという事

  • 故に作者の言葉は絶対ではないという事
    をこれまでで解説しました。
    作品の解釈において、作者の発言という作品に限りなく近いと感じられる存在すらも排除されてしまうという事が確認出来たのであれば、もう少し付け加えなければならない事があります。
    それは"自己以外のあらゆる外在的存在を用いて作品を解釈してはならない"という事です。
    どういう事か?つまりは

「〇〇は××の影響を受けた作品」
「AはBのオマージュ」
「△△はこのような社会情勢から生まれた」
「〇〇は××からこの要素を削ったもの」

このような言及は作者が言ってようがその他の人間が言ってようが全部クソ食らえだという事です。
これまでの項目では基本的に「作者と作品の関わり」という観点から話を進めてきましたが、そもそも作品の解釈において「作品とそれを解釈する自己」以外の要素を介在させる必要なんて微塵もないはずです
だって作品は1ミリたりともその作品の域を出ず、一切の欠け無くそれ単一としてその作品で、ならばそんなものと比較出来る何かなんて存在しないはずで、それを解釈するのは自分自身。
だったら必要なものは唯一の個として完成された作品そのものと自己そのものだけでしょう。
勿論、解釈を行う過程の中に作品外存在が出てくる場合はあります。

「この設定アレと似てるな」
「これはあの思想と接続出来そうだな」
「これは〇〇論として捉える事も出来るな」

これらのように、作品を鑑賞した時に自分が持っている知識や経験と紐づいた何かを想起させる事は本人が意識するしないに関わらずよくある事です。
この段階ではまだ自分の中で起きている現象に過ぎません。
ここで指摘しているのは、だからと言ってイコールでそれらを直結させるのではなく、あくまで自分の中で行われる作品の解釈の橋渡しとしてそれらの作品外存在を扱い、""だからこの作品は""何だと言えるのかまで持っていくべきだという事です。
これはここまで書いてきた「作者の言葉」「誰かの言葉」と言った作品外存在に対しても言える事で、それをもう一度だけ自分の中で再解釈して自分の言葉としても扱えるか、場合によっては更に発展させられないかを確かめてから扱いましょう。というような意味合いのお話です。
他人の言葉からインスピレーションを受けるなんてよくある事ですが、それをそのまま流用するのはどうなのくらいのニュアンスです。


「作品の解釈」という作品

 はっきり言うと、自分自身で作品と向き合って1つの解釈を生み出す事、そしてそれを発信する事、このどちらもがとても怖いししんどいし間違いなく手間も多い。技術や訓練が足りなければ思い通りにいかない場合も多々あるものです。だからそのリスクを拒否して、手軽で早くて自分が極力傷つかない方法である"自己以外の作品外存在(作者の言葉なども含む)の流用"をする人が多いのでしょう。
ところでこの性質は作品を作る事、つまり創作とよく似ているのではないかと私は思います。
「何かと向き合って自分の中で解釈し、別の形で置き換える」と言えばより伝わりやすいでしょうか。詩・絵・音・物など、あらゆる芸術においてこの特性は適用されるような気がします。
神なる全知全能の力でポンと作品が生み出されるわけではないように、作者があまりにも人間らしく苦悩に満ちて作品を生み出すように、作品の解釈という作品もまた苦悩に満ちて生まれてくる事でしょう。
しかしその上でそれでも形になった作品の解釈という作品は自分の中で強固なものになり、例え誰かに的外れだと言われようと作者はそう言ってないと言われようと、少なくとも自分の中での作品解釈としてこうなんだよお前誰だようるせ~~~~~~~~~~しらね~~~~~~~~~~~となる気がします。その作品の解釈という事に関しての大きな自信になります。
たまに描写や文言を見落としてたり見間違えてたりして本当に間違ってたりはするんですけどね……その時はてへって言って修正しましょう。


おわり

おわりです。
これをしてはいけない、これは違うというような少し息苦しい記事になってしまった気がします。ごめんなさい。
どうでもいいですが、これまでの内容に則るとこの記事は「作品の解釈を解釈した作品」と作品解釈ハンバーガーになってる事に気づいてフフッってなりました。きっとハンバーガーピック刺さってるタワーみたいな物理的に高いバーガーなんだろうなぁ……薄味だけど味わい深いんだろうな……………………
食べたいかどうかは微妙なバーガーだな……。

 この記事は自分が書いた他の記事のように、思った事や「こんな視点から見た〇〇を言語化してみたらどうなるんだろう」を綴ったものではなく、それらの行いに共通して当てはまる基本理念を記したものです。なのである意味自分の戒律を記したもので、その分ちょっとキツめな物言いになってしまっているような気がします。
基本的にゲームや映画、本などの批評記事を書く時は冒頭に「作品内から読み取れる要素以外は基本的に排除している」と記載していたのですが、その理由みたいのをどこにも書いていないの気持ち悪いな~~~~~~と思っていたので次からはこの記事貼る事で解決しちゃおうというのが一番の目的だったりします。

 私自身、プレイしたゲーム、感動した物語や本の批評を読むのがすごく好きなのですが、実際に作品の感想や批評を調べると当作品以外の類似作品をいくつも持ち出して語った気になっているもの、結局作品に対する言及の体を為していないもの、果ては「この作品はこう展開するべきだった」「こうなると思って見てたのに違ったから微妙」のような、最初から作品を「自分の価値観に沿ったものになるかどうか」のような視点で見たものなどが大半を占めていました。
特に『もののけ姫』の批評なんかは「監督」「ジブリ作品」「環境問題」「ナウシカとの対比」のような枠で括られやすく、本作そのものがどうだったのかという言及にありつくのは難しい状況になっているように感じます。
突然この記事が全人類の脳に発信されて私にとって興味深いもののけ姫批評記事が溢れかえったりしたら嬉しいなぁ。

 わかる人にはこの記事を読み始めてすぐにわかってしまうでしょうが、この記事は批評論で言う所のテクスト論信者の叫びという感じでした。
折角なのでテクスト論の核心とも言え、作品を解釈するという事において私が素敵だなと思った言葉をあえてこの記事上で引用して紹介しましょう。

ある作品が永遠なのは、さまざまな人に唯一の意味を強いるからではなく、ひとりの人間にさまざまな意味を示すからである。

作者の死/ロラン・バルト

この言葉の内容の感想はともかく、ここでこの一文を引用して紹介する事でこれまで綴ってきた私の文章や思想そのものが他者の借り物めいて見えてきたりしませんか?
他者の言葉や「これは〇〇論です」と言う型ばったもので説明をするのはやはり手軽で簡単で気軽ですが、それでも私は自分の表象と向き合ってそれを自分の言葉で綴りたいと感じてしまいますしそれが作品に対して誠実であるという事なのではないかと感じます。
そしてそれは作品と向き合う時だけでなく、人と向き合って言葉を交わす時にも強く思う事だったりします。
特にインターネット上ではネットミームやそこから派生した定型文のようなものが多々あり、それを使って会話するのは簡単ですがやっぱり相手を尊重するなればこそ自分の言葉で話したいなあと。
定型文のやりとり自体をコミュニケーションとして利用するのはいいと思うんですけどね。それは相手と向き合う会話ではなくある意味合一化の作業なので。
因みに上で引用した言葉に出会ったのはこの記事を8割方書き終わった後で、この本も読んだ事が無いので今度読んでみようと思います✌
あと私とテクスト論の出会いは自分の所感が先、概念を知るのが後で借り物ではないので安心(?)してください。

 勿論これは私の考えであり、自分なりのやり方で作品に敬意を払いたいという気持ちや、読解作業とその言語化作業自体に多くのリソースを割く事を苦痛に感じない(作業自体に苦痛が伴わないわけではありません)から遂行出来るという面も大きいと思います。
それに、それでも全ての作品で十全に行えているわけではありません。好きな作品にだってまだまだです。
なのでこの記事を読んだ方々が、感覚的に楽しむ、言語化は出来ない(またはしない)けど何か別の形で表現する。などなど、この記事きっかけで作品への見方を増やしてみようかな?自分にはどんな方法が向いてるか考えてみようかな?などと考えてくださる方が居ればそれはもうめちゃくちゃ嬉しい事です。
どちらかというと否定する側面から綴ってきた本記事ですが、根底にある気持ちとしては「同じ作品を同じ人が見てもその人にとってより素敵な何かが見つかるといいな」というものだったりもします。4割くらいは。
なのでこの記事をここまで読んでくださった、何かの作品を愛するみなさんにエールを送る事でこの記事を締めさせてください。









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