【私の幸福論】いつも心にひまわりを-前編
なんだか幸福についての記事が連続している気がします。「マイブーム:幸福」という状態かもしれないですね。
さて、以前このような記事を書きました。
自分にとっての幸福をより強く認識する為にその他の幸福っぽいものを生活から一旦排除してみたよ。その結果が健康生活になったよ。健康生活おすすめだよ。
大まかに言うとそういった内容です。
しかしこの記事を読んだ方がその内容を遂行するには大きな問題があります。それは記事内で健康生活を行う切っ掛けとして提示した"自分にとっての幸福"をそもそもどうすれば認識出来るのか?見つけられるのか?その方法論を挙げていないという事です(そもそもは健康生活がメインの記事なので)。
なのでこの記事にてその問題を解決する事で、上の記事とセットで活用してもらっちゃおう!そんな目的の為に筆を執っています。
一口に幸福と言っても当然その捉え方考え方は違うでしょう。
それは今同じ時代を生きている私達においてもそうですが、過去においても世界にはこれまでたくさんのよく考える人が誕生しその人達がうんうんと考えた結果各々の幸福論を展開していますし、論にまで昇華させていなかったとしても恐らくこれを読んでいる方々の中にも各々の幸福の考え方があるかと思います。
この記事で示される私の幸福論もただひとつの正しき幸福論ではなく、とある現代人によると……という多々ある幸福論の中のひとつでしかありません。
ただそんな私の幸福論を省みた時、それを言語化しない事はこの幸福論の主張と相反する可能性があるなと気づいたので、自分の中のそんなモヤモヤも解決しつつこれを読む方の幸福を探る手助けになればいいなあ。そんな記事です。
幸福は何に宿るか?
物質と経験
上に貼った生活に関しての記事の前置きで以下のような問いをしました。
この問いをした時に話題が脱線する事を嫌って記述しませんでしたが、「あなたの幸せは何ですか?」と聞かれた時に浮かんだ答えが必要性から来るものだった場合、それは残念ながら"あなたの"ではなく"肉体"や"社会"と言った、「あなたが強い影響を受けるあなた以外の物体」から来る幸せやそれに適応する為に必要なものである可能性が高い、という事をまず提示させてください。
必要性から来るものというのは例えば
食事というのは元来の目的は肉体維持の為の栄養補給なので、お腹いっぱいにご飯を食べる時に感じる幸せは生存の必要性、つまりは生理的欲求による面が強いでしょう。
お金がたくさんあってはっぴーに関しても衣食住に困らないという生存としての必要性を担保されているという面があるのではないでしょうか(それのみとは限りませんが)。
会社や友人グループなどでワイワイやってたらその場はなんとなく楽しい、というのも、そのコミュニティに属すことで孤独感を回避出来るという社会的欲求に近い場合があるかもしれません。
他にも必要性に彩られた幸せっぽいものというのはたくさんありますが、わかりやすいのはこの辺りでしょうか。
当然必要性というのは必要だから存在するもので、確かにそれを満たせていなければストレスとなり心身によくない影響をもたらす場合がありますが、それのみを幸せとして扱ってしまうとつまりはそれが満たされていない間は幸せじゃないという話になります。
お腹が減る事こそが不幸。預金残高や資産が減る事こそが不幸。なんか今日はみんなと同じノリになれないから不幸。
その時々の感情の機微はともかく、幸福というものがそんな単純なものじゃない事は感覚的にも頷ける方が多いのではないでしょうか。
じゃあ何を幸せとして扱えばいいんだと言う話になりますが、それは経験です。これは「こんな具体的にこれをすれば幸せですよ!」という意味ではなく、幸せとは経験そのものであると捉えるのべきだという意味です。
お金は使ったけどこんな経験が出来たから幸せだ、〇〇を見るという経験が出来たから幸せだ、あなたが居る事で私とあなたならではの事を経験出来るから幸せだ、あなたという独自性を経験出来るから幸せだ、などなど。
どのパターンにおいても物質そのものがあるから幸せなのではなく、それによって得られる経験が私達の中で幸せに変換されているのです。
有名な思考実験で『ポールワイスの思考実験』というものがあります。
試験管にヒヨコを入れそのまますり潰した時、試験管の中身は物質的には何も失われていない。では何が失われたのか?
というものです。
「命」「魂」「生体としての機能」のような解答も可能なのでしょうが、私としては「ヒヨコという経験」という答えを提示したくなります。
私達が想像するヒヨコという生き物から得られる「ピヨピヨ鳴いてかわい~」「もふもふで癒される~」みたいな経験はすり潰された後からは得られず、かつてヒヨコであったその物体を最早ただの肉塊としてしか経験出来ないでしょう。
つまり私達は物質をその物質がどうあるかではなく、自分の経験としてどういうものかで扱っていると言え、それを要約すると"私達は物質をどう経験するかで幸福を感じるかどうかが決まる"と言っても過言ではありません。
さて、物質の有無ではなくその物質の生む経験こそが幸福の素だとするならば、同じ過程を経て同じ結果が得られるべき論理というものを用いる幸福論には大きな問題が姿を現すことになります。
当然ですが同じものを見ても全員が全員同じ経験をするとは限りません。
ポールワイスの思考実験で言うならば、ヒヨコに何の愛着も持っていない人がこの実験上で受けるショックというのは大きくないかもしれませんが、このヒヨコを生まれた時から育てていた飼い主であったなら絶大なショックを受ける事でしょう。ヒヨコ嫌いの人ならばむしろ拍手をするかもしれません。もっと言えば、今日はショックを受けなかった人がその晩に動物番組を見た結果次の日の同じ実験ではショックを受けた、というような事も考えられるでしょう。
このように経験は人によって異なるだけでなく、他の経験と干渉し合う事で同じ人が同じものを見ても全く別の経験になり得てしまうのです。
そして当然これは経験が媒介となる幸福においても言えます。
なので私達に永遠の幸福はあり得ず、その場その場で得られる幸福を有難がって生きていくしかありません。HAPPY END……。
とはなりません。
少なくともそんな脆弱なものを私は幸福と呼びたくありませんし、もし永続的に続く幸福があるならそれを追求した方がハッピーである事に疑いの余地はありません。
なので永遠の幸福が存在する可能性を見つける為に「それでも」と言葉を振るっていきます。
幸福の離陸
ここまでで、幸福とは経験によって起き、経験とはあまりにも場合によるものだという事を書きました。
ではいつ如何なる時も幸福であるにはどうすればいいでしょうか。
私達は様々な現象や存在から受け取る情報を経験し、それによって気持ちが左右されたりしてしまいがちです。
誰かの言葉・行動
好きなもの・嫌いなもの
テンションが上がる音楽
報われない物語
自分の体調
ヒヨコの死
何かを見ては喜んだり悲しんだり怒ったり……色んな感情があり、何をしても同じ感情しか抱きませんという人は居ないでしょう。
しかし私達の感情を揺さぶってくるこれらには共通点があります。
それは物質が関わっているということです。「誰か」も物質的だし「嫌いなもの好きなもの」も物質です。少なくとも上に挙げたものは物質的に発現し、物質的に原因の解決が可能なものだと言えるでしょう。
そして私達は物質を意のままに操る事が出来ません。私達の意思に関わらず誰かは怒鳴り、天気は悪化し、嫌いなものは眼前に現れ、好きなものは無くなり、肉体は衰えたりします。
なので自分で制御出来ない要素である物質というものに幸福という経験を結びつけるのをまずやめます。というより物質に幸福が結びつかない事を発見します。
自分が幸せ~ってなった事やその精神状態を思い出してみてください。正直その気持ちそのものって好きなものが無くなっても肉体が衰えていても持てそうじゃないですか?
逆説的に問うなら、肉体が衰えてたら絶対幸せになれない、好きな物質がここに無ければ絶対幸せになれないなんて事があると思いますか?
何が言いたいのかというと、物質の有無によって幸福になるわけではないように、物質の有無によって幸福が瓦解する事もないのです。
物質ではなく経験こそが幸福をもたらすのだと確認したのですから、同じく幸福を失うのも物質ではなく経験によって引き起こされなければならないはずです。
にも関わらず私達がそう錯覚してしまうのは、幸福や経験は物質によって成り立っていると思い込んだ上でそれに気付いていないからです。
更に踏み込みましょう。嫌いなものだとか誰かが何かを言ってるとかは勿論、肉体的な状況に由来する気分すらも物質的なものなので幸福には影響を与えません。
つまり、あなたがあらゆる物質・現象からどんな気分を今受け取っているかはあなたが今幸福かどうかには何も関係がありません。
このように幸福の所在を物質から飛び立たせる事が、永遠の幸福を発見する為に必要な最初の作業です。
ではそれが成功したとして、物質から切り離した幸福をどこへ持っていけばよいのでしょうか?
答えは簡単で勿論非物質へと持っていくのです。
次の記事からは大きく2種類に分けて幸福の着地地点を提案しつつ、その方法論について記述していきます。
それにあたって以下の言葉を共有させてください。
世界内に物理的に存在・干渉し得るするものを「世界内存在」(肉体存在としての私達・文字・食べ物など)
世界内で物理的に存在・干渉し得ないものを「世界外存在」(感情・幸福・経験など)
としてこれからは扱っていきます。
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