【私の幸福論】いつも心にひまわりを-後編
↓前回の記事
前回の記事では幸福はどこに宿るのか?その所在について書きました。そちらも併せて読んで頂けると理解が深まると思います。
今回の記事では、「じゃあ永遠の幸福はどのようにして実現するのか」と「その方法論」について主に書いています。
能動的な幸福
何かをしている時に感じる幸福、というのは想像が難しくないでしょう。
それは趣味だったり、仕事だったり、人助けだったり、悪巧みだったり、人によって様々だと思います。
ではこれらに共通して言える事、つまりこれらを体系化して「こういう事をする時に幸せを感じられるはずだ」というものを発見し、且つそれを発展させられないかな?というのがこの項目での試みです。
体系化について結論から言ってしまうと、何かをしている時に感じる幸福に共通するのは"自分の能力を発揮している事"なのではないかと思います。
「仕事が楽しい!」という人は仕事の中で自分の能力や気持ちが十分に発揮出来ている実感があるからこそ他の人には理解されなくともそこに本気で幸福を感じて業務に邁進するのでしょう。
趣味においても、例えばスポーツで「特にこの瞬間が最高!」という感覚があるのはやはり自分の能力が活きた時のように思えます。
私であればこういった文章の素となる何かを考え、それを世界内存在に置き換えて連結していく作業では自分の能力が活きていると感じています。
もしかすると規模としては小さく感じられるかもしれませんが人助けも同様です。例えば落とし物を拾ってあげるなんて事は、確かに物理的には他の人にも出来るかもしれませんがそんな物理的な能力に加えて何かしらの気持ちという能力も必要です。
だからこそ
「この仕組みを工夫したらもっといい仕事が出来ないかな?」
「練習をいっぱいしてもっといいプレーが出来るようになろう」
「あの人はこういう事も求めてたんじゃないかな。次はそれも意識してみようかな」
と言った自分の能力をより高めようという習練の意向が生まれるのでしょう。これはまさに自分の認識する誇るべき能力の範囲を拡げようという、無自覚な幸福への歩みです。
逆に自分が能力を発揮できないと感じているものに取り組む時には「なんでこんな事してるんだろう?」「早く終わらないかな」「嫌だなあ」とおよそ幸福とは真逆に位置する感情が湧き出てくるでしょう。
クリエイティブな事をしたい人が単調作業を延々とやらされる、重い荷物を持てるように筋肉を鍛えている人がデスクワークをやらされる、それぞれの逆など。自分が能力だと認識しているものが全く活きない事をさせられるのは苦痛でしかありません。
これを経験として言い換えるならば、私達は仕事や趣味や人助けを通して自らを経験しているのです。能力を発揮している自分、能力が発揮されていない自分、各行動を通してそれらを経験しています。
私達はいつだって「誇らしい能力が発揮されている自分を経験したい」し、それに幸福を感じるのです。
能力を発揮したい私へ、あなたへ
自分の能力を発揮する事が幸福に繋がっていそうだと考えた所で、それならば「自分の能力を認識する事」について私達が行えるアプローチを考えなくてはなりません。自分が認識していないものを経験する事はあり得ないからです。
道を歩いている時にアリを認識していなければアリを踏み潰した、あるいは避けたという経験も当然起きません。
豚に真珠という言葉は豚がそれを真珠として認識していないから意味がない(我々が経験する所の真珠としては経験出来ない)とされるのです。
つまり自分の能力を経験するのであれば自分の能力を認識するというアプローチは必須だと言えます。今回提示するアプローチは2つです。
1つは上でも少し触れました。
自分の能力の範囲を拡げる事ですね。
しかしこのアプローチの方法で元来の目的である「幸福を常に傍に置く」という目的を達成するのは難しいでしょう。
何故なら常に幸福であるには、"常"というものに、つまりはあらゆる時あらゆる事態に対応出来る能力を備える必要があり、現実的な問題としてそれには限界というものがあります。
100mを10秒で駆け抜け、空を飛び、論理的にも感情的にも十全に考え感じ、口は達者、森羅万象を知り、決して眠らず、所持金は9999億兆万円……その他諸々。そんな人間は想像すら難しいです。
しかも能力の習練とは、まずはそれが自分の能力ではない事を認識しそれを自分の能力にしていく作業とも言えるので、「自分の能力でありたいのに自分の能力じゃない」という状態が続くものです。言い換えればそれは「ここには無くて一歩先にある幸福を常に見つめ続ける行為」でもあるので、正直言ってその過程がつらいという方も大勢居るでしょう。
更に習練というのは1つの事柄に絞ったとしても少しずつ、ゆっくりと行われていくものであり、一晩で劇的に本人の能力と言える所が成長するというのも考えづらい話です。習練とそこから得られる幸福にのみ焦点を当てるのであればこれは遅効的過ぎます。永遠の幸福を手に入れられる最強人間になるより先に寿命が尽きると思います。
つまりこの「自分の能力の範囲を拡げる」というアプローチは、幸福の幅を増やす事にはなっても常に幸福である事には繋がらないということが確認出来ます。
2つ目のアプローチは、自分の能力を拡げる事とは対偶の関係にあるとも言えるもの、即ち自分が自分の能力だと認識する単位を小さくする事です。
能力を小さくするのではありません。"能力自体が変わらないとしても"「これも自分が発揮出来る能力かも?」という認識を内側に拡げる事で"自分が認知する自分の能力"を増やしていくのです。
では自分が発揮出来る能力の最小単位は何かというのを考えてみます。
歩く事、喋る事、考える事、息をする事、更に更に最小の能力を手繰っていけば、行きつく先は恐らく"自分が存在する事"でしょう。
想像してみてください。何もせずただ存在するだけで「今、自分の能力発揮されてるな~~~!」「オレ今めっちゃ活躍してる~~~~!」を感じられたらめっちゃ幸せな気がしませんか?
しかもこれって必要な要素が「自分が存在する事」なので主観的な感覚としては消失のしようがありません。
つまり自分が存在する事自体を自分の能力として認める事が出来ればここに永遠の幸福が実現しそうです。
こっちのアプローチであれば全知全能所持金カンストチーターボーイよりもまだ行えそうな気がしますよね。
その具体的な方法論については結論部分でお話しするとして、その為に重要な受動的幸福についてここから触れていこうと思います。
受動的な幸福
何かをしている時だけじゃなく、何かをされた時、何かを感じた時にも幸福を感じたという経験がある方もたくさんいるのではないでしょうか。
荘厳な景色を見た時、人からの愛を感じた時、自分の心に合った音楽を聴いた時、心が洗われるような物語を見聞きした時。
様々な受動的幸福が思い浮かびます。
しかし受動的である以上自分以外の何かから受ける必要があり、能動的幸福のように自分の意思で操作する事が困難だという点でやや扱いづらいものだと言えますね。
では受動的な幸福は何の優位性もなく能動的な幸福の劣化版なのかというと勿論そんな事はありません。
受動的幸福の特性を確認していく事で、能動的幸福には無い2つの優位性について語っていきます。
特性の1つ目は、受動的であるが故に楽だという事です。
シンプルにそれを受け取る為の必要アクションが少ないので消費エネルギーもさほど必要とせず(それを受け取る事自体のエネルギーはまた別ですが)実行が可能です。
なんだか怠惰的にも思えますが意外と重要な特性です。だって疲れちゃいます。
それに、ただでさえ"起こるかどうかわからない"という不確定要素を抱えているのに能動的幸福と同じ消費エネルギーだったらそれだけで取り組むのが億劫になってしまうと思います。
エネルギーが少ない時にでもボーっと実行出来たりして、そこで何かを受け取る可能性があると思えるだけでも素敵な特性だと思います。
特性の2つ目は、自分の意思で起こせないが故に自分の認識の限界を超えて遂行される可能性があるという事です。
能動的幸福では自分をより強くより深く認識する事に重きを置いていました。しかしそれは全て自分の中で遂行されるが故に自分の認識以上の事が行われる事は絶対にありません。
どんなに多方面から自分への解釈を行ったとしてもそれは自分の認識の内で行われているに過ぎないので、その認識の限界がそのまま自分の能力の限界であり、もっと言えば自分の幸福の限界であるという事です。
しかし受動的な幸福は自分の認識の外から行われます。その認識の限界をぶっ壊して押し拡げてくれるのです。わかりやすく現象として言い換えるならば"感動"するのです。
感動とは自分の認識の外、自分では発想すら出来なかったものや何らかの理由で起こり得ないと感じていた事、にも関わらず自分にとって何かしらの意義を持った経験であるからこそ起きるものです。
感動が起きた瞬間、それまでの自分の認識が破壊されると同時に〇〇によってこのように感動したという経験が自分の中に生じます。つまり外側からやってきた感動が自分の経験という内的なものに置き換わり自分が扱える領域になります。
自分が扱える領域ならばそれを以て再び自分の能力を見つめ直して何かしらの発見をする事が出来るでしょう。少し狡い言い方をするならば、その時それに感動出来る事自体があなたの能力そのものなのですから。
まとめると、受動的幸福とは能動的幸福よりも扱いづらく自分の意思によって引き起こす事は難しいものの、能動的幸福をより深めていくのに必要な行為であると言えるでしょう。
こちらの方法論に関しては能動的幸福の方法論よりも簡単です。
例えば本を読む、映画を見る、人と話す、美術展に行く、ゲームをする、何でもいいです。それが100%受動的幸福をもたらすとは勿論限りませんが、能動的に受動性の高い行為を行う事で可能性は高まります。
永遠の幸福。その方法論
自分の誇らしい能力を経験する事が幸福というものである
能力を経験するには自分の能力をより広く認識していくのが有効である
その為には自分の認識の外から行われる受動的幸福が必要である
という事をこれまで解説してきました。
これらを連続した1つの行為として行う為の方法論を3から逆順で模索していきます。
受動的幸福の保持
感動というものそれ自体はどちらかというと瞬間的なもので、受けた時がピーク、それ以降は少しずつ薄まっていくものです(ピークが永遠に持続されたらまともに生きていけません)。
となるとその受けた瞬間でのみ受動的幸福が達成されいずれ消えていってしまうと考えられますし、実際にずー--っとその最大の感動を抱き続けている事は難しいと考えられます。
しかし例えば大好きな歌のテーマになっている花があれば道端でその花を見て歌を想起したり、想起するだけでなく歌で感動した気持ちやその歌が好きだという気持ちを最大値でなくとも再経験出来たり、例えば亡くなってしまった大切な方が好きだった食べ物を見ればその方と居た時の気持ちを再経験出来たりと、受動的幸福を経験した事の象徴となる物体を通して私達はその幸福を再経験出来ます。
もう少し正確に言うならば、その物体を見て意識せずとも再経験"してしまう"のです。無意識の中に受動的幸福という経験は刷り込まれており、物体を認識する事でそれが自動的に引き出されます。
無意識下でさえこれが遂行されるのですから、意識的に刷り込んだ上で無意識下ではなく意識下に置けばより強固に、そしてわざわざ引き出す事なく永続的に経験を引き出し続ける事が出来るでしょう。
では如何にして意識に刷り込むのかという話ですが、これはあくまで私の場合という前置きをした上で記述させてもらうならば
自分の中でとてもとても大きな受動的幸福を受けたものを思い返す
↳作品でも人でも言葉でも景色でも何でもそれを再経験出来るモチーフを認知する
↳海辺に感動したシーンがあるから海!大好きな主人公が苺好きだから苺!とかそんな感じそのモチーフと自分をイメージ的に強く結び付ける
↳複数の作品と1つのモチーフを結びつけるのも有効そのモチーフを手軽に視覚的に摂取出来るようにする
↳テーブルに乗るようなグッズとか、手持ちの物につけるもの、身に着けるもの、あとは絵とか、言葉とか視覚的に摂取した時だけでいいのでそのモチーフから得た受動的幸福の気持ちを思い出してみる
↳写真を見て昔を懐かしむような感覚と言えば伝わるでしょうか視覚的に摂取しなくても自分の心象にそのモチーフが自然に現れるようになるまで続ける
モチーフを頭や心で思い描き続けられるので、その作品から受けた受動的幸福も経験し続けられる
こんな感じでしょうか。正直私は幸福を求めてこれらを意識的に行ったわけではなく、ただただ作品から受けた経験とそのモチーフが数年間全く頭を離れなくて(つまりは5と6の状態が続いていて)気づいたら7のような状態になっていたという感じなので本当にこの手順が正しいのかは自信がありません。ただその過程や状況を思い出して体系化するならばこのようになるかなという事で記述しました。
これを読んでいて感じた方も居ると思いますが、やってる事としてはほとんど宗教のそれです。言わばこの作業は
教祖=自分
信者=自分のみ
教義=感動という経験
教典=作品
御神体=作品のモチーフ
という自分だけの最強の宗教を作ろうという試みに他なりません。
「じゃあ既存の宗教でもよくないか?」という意見もあるかもしれません。
全く構わないと思います。ただし、その教えや宗教の在り方に対して借り物ではなく本当に自分としての受動的幸福を経験出来たならばですが。
もう少し言うならば、この受動的幸福の保持は複数を同時に行ってもいいのです。
自分の中で自分だけの宗教を複数興し、それらがどこか根底で結びついているとかだとより強固になりますしね。
重要なのはその気持ちを持ち続ける事かもしれません。例えばダイエットから来る食事管理・制限とかでも1日だけじゃなくて継続する事でその状況を自然にしていくのが重要だと思います。それに近いです。
また、そのモチーフに別の経験が上書きされる場合、もっと言えばマイナスな心象の経験が上書きされる可能性についてですが、個人的には一切ありませんでした。
これはただのラッキーなのかもしれませんし、世界内存在のモチーフと世界外存在のモチーフは別物だと割り切れていたからなのかもしれません。
なんとなくの想像ですが、自分の中に常駐させたいと思う程の強い影響を受けたもののモチーフが、ちょっとやそっとのマイナス影響は受け難く、結局先に受けた経験の方が強くなるのかなとも思いました。
幸福はここに、そして全てに
さて、方法論の話を始める際に以下のような事をおさらいしました。
自分の誇らしい能力を経験する事が幸福というものである
能力を経験するには自分の能力をより広く認識していくのが有効である
その為には自分の認識の外から行われる受動的幸福が行われる必要がある
前の項目では3の方法論に触れた事になりますが、ではその3を遂行出来たとして、その内容を如何にして2に活かすのかというお話をこの項目ではしていきます。ここからは今までと比べると簡単な作業……というか恐らく自然に遂行される可能性が高いものなので作業というより現象と言うべきかもしれません。
前の項目で語ったように、受動的幸福のモチーフを胸に宿して常に幸福を経験出来るようになったのであればおおよそあらゆる時に幸福を感じられるようになります。
何かしている時は勿論、何もしていない時も、なんなら気分が落ち込む時であっても「気分は間違いなく落ち込んでるんだけど、それでも今幸福を感じている事もまた間違いないな」という感覚があります。
何をしていても幸福を感じる状態になった自分を発見出来たのであれば、それを言い換えれば"何をしていても幸福を感じるという自分の能力を経験している"と言えるでしょう。
起床の瞬間に幸福を感じる能力
歯磨きする事に幸福を感じる能力
ご飯を食べる事に幸福を感じる能力
上司に怒られようが幸福を感じる能力
突然雨に降られようが幸福を感じる能力
知らない人と話して幸福を感じる能力
苦手な事をしても幸福を感じる能力
通い慣れた道に幸福を感じる能力
初めての事で幸福を感じる能力
そして勿論、"自分の能力として最小のもの"に設定した"自分が存在する事"にも幸福を感じる事が出来ます。飛躍したように感じるかもしれませんが、受動的幸福のモチーフと自分のイメージ的に連結出来た時点で
モチーフ=幸福
モチーフ=自分
幸福=自分
という形で自分と幸福を結び付けられているのかもしれませんね。
あらゆる時に幸福を感じ、その幸福を自分の能力のものとして経験出来るのであれば、これはまさしく自分の認識する自分の能力が拡がり且つそれが働き続ける状態であり、つまりは能動的幸福が常に遂行されている状態です。
これによって、理屈の上では受動的幸福、能動的幸福の双方から永遠の幸福を実現する事が叶いました。
私の中のひまわり
これを遂行出来ればそこに永遠の幸福が成立するだろうという方法論を展開してきました。
ここまで語ってきた内容を大まかに要約すると
幸福は世界内存在そのものからは得られない
誇らしい能力を発揮する自分を経験する事によって幸福は発生する
その自分を経験するには自分の誇らしい能力の認識を拡げる必要がある
自分の誇らしい能力の認識を拡げるには自分の認識の外から影響を受ける必要がある
その外からの影響こそが「感動」である
こんな所でしょうか。
勿論個人個人でこれらの作業の得手不得手があったり、途中まで同じだったけどそこからは違う方法に分岐したり、そもそも前提も何もかも違ったりと、この方法を行えば100%幸福の絶対保証!というものではありません。
しかもこの幸福論を実行する為の最初の一歩は「感動する事」になってしまっています。
当然感動しようと思ってポンと感動出来るものではないですし、それでは意味が無い事も説明したつもりです。
であるならば、「まず感動せよ」と発言する私自身が誰かの心を動かそうとしないのは嘘っぽい話でしょう。
なので例えばこの幸福へのアプローチを見て、あるいは他の記事や私のTwitterでも、総合的な私というコンテンツでもいいですしそこから更に別の所に飛んででもいいです。とにかく私が誰かの感動を生む為の架け橋になってこそ、なろうとしてこそ私にこの幸福論を唱える資格が与えられ、少なくとも今はこれを信じているんだという証明になるのではないかと思います。
私にとってひまわりから齎されるような素晴らしき日々が、きっとみなさんにも訪れますように。
おわり
おわりです。
『幸福論』という、言ってしまえば怪しげのあるというか、言葉の上でいくらでも展開出来るのに感情的な実感が伴わないと意味が無いという内容ですし人によっては「しょうもないテーマだな~」と思うものかもしれません。
この幸福論を唱える私も、時として「こんな詭弁は」と世界内あるいは世界外存在からの影響でこの幸福に背を向けてしまったりします。
しかし最初にも書いた通りこれは数ある幸福論の内の1つでしかありません。それもじんわりじんわりとしたとても穏やかな幸福です。
だからこそ色んな幸福論が必要なのだと思います。「どこを向いても【幸福であるという論理】が私を逃がさない!」そんな状況が。
それを巨大なひとつの幸福論に包まれて起こすのか、複数のものに囲まれて起こすのか、自分はどちらになっていくのかわかりませんがこれからも幸福論と向き合っていく事でしょう。
今回の幸福論は言ってしまえば【自分とその他事実として起こる現象】さえ認識していれば発生するものであり、【自分と同じく意思を持つ他人】の存在を認識していません。
逆に後者を強く強く認識していく事で得られる幸福もあると思うので、これからはそっちを重点的に模索していきたい気持ちもありますね。
今回の幸福論はおよそここ10年くらいの日々によって私が確認したものであり、またここからの10年で掘り下げが行われたり、もしかしたら全然違う幸福論を展開したりしているかもしれません。楽しみです。
さて、実は個人的にはこのテーマ、もう少し深堀りしたいと思う所があります。
それは何かというと「幸福であると何なの?どう良いの?」というものです。
つまり「自分の外側から影響を受けて自分の内側で揺るがぬ幸福になったとしよう。それを再び自分の外側に影響させるには?」のような話ですね。
「生きやすい」みたいなメリットはあるかもしれませんが、完全にと言わないまでもそれはかなり自分の中で完結している内容であり、それのみでは他人を始めとした世界内存在に影響を及ぼしづらいものでしょう。
「幸福である人間には何が出来るのか」言い換えてもいいかもしれません。
幸福になったからと言っていきなりお金持ちになるわけでも友達100人出来るわけでも偉くなるわけでもありませんが、では何になるのか。
私なりのその回答は、きっと今度こそ本当に次回……か次々回の記事となる『愛するということ』の批評でお伝え出来ればいいなと思います。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
いつも心にひまわりをっ!🌻
了