分布への許容と優生学への抵抗
例えば大学の優劣で個人の序列を判断する。それを個人の責任へと転嫁することを考える。
マクロな視点で見ると、遺伝も含めて多数かつランダムな要因が絡んだ場合、各個人がある人生で入れた大学(つまり確率的)を数値化すると正規分布しそうな気がする。さらに、そのような個人を独立変数として集めた社会もやはり正規分布しそう。そして、そこに優劣は無く多様性がある。
形によるけど正規分布の裾は思ったより広いので、もちろん努力すれば上位に行ける可能性だってある、ただし、確率はかなり低くなるけど。世の中のビジネス書はロングテイル戦略で母集団の片方の裾の端ばかり描くし、そっちの方が耳馴染みが良い。
「限界を自分で造るな」というアドバイスがある一方、多くを求めず「自分の限界」を知って無理せず幸せに生きろ的なアドバイスがあると思うが、多分どちらも正しくて断絶した壁があるわけでは無く、確率というグラデーションがそこにあるのではないか。
つまり、自分の能力の壁は正規分布の壁であり、垂直に立つまっ平らな壁では無い。その壁は自分に向かって斜めに傾いており、進むにつれて頭がぶつかり、腰を曲げないと進めず、その先は足元に小さな穴が空いてるだけだ。その穴に一生懸命ぐりぐりと頭を突っ込む作業を皆がしてる。この頭痛は尊い。
と、ここまではある一つの形質(大学の偏差値、数学の点数;パラメーター)の数値という一次元の直線上で考える事しか、あるいは2、3次元の空間でしか人間には難しい。その限られた形質の数値の中で、優劣や高低で語り、悩む。さらには、その優劣で切断型選抜を行おうとする。
だが、前提が変わればその形質の数値も変わる。さらにはその形質は、まだ見ぬ他の形質と相関あるいは逆相関しており、それが未来の社会で重要な意味を持つ可能性がある。すなわち、人間の浅はかな認識で取捨選択を、選抜を、優劣を決めることはとても滑稽な事だと思う。
もちろん、未来の世の中での有用性で考える事自体が資本主義に毒されている気はする。でも、その有用性で考えてさえ人間を切り捨てることの合理性が無いことがわかる。その点でデジタルで切り捨てない世の中を作るというオードリー・タンさんに私は共感したんだと思う。
そういう意味で優生学の無意味さが余計に際立つのでは無いか。ある形質の数値だけを見て、それを合理的な理由として、ある種の人間を排除する。多分、腐ったミカンを排除しないと全体が腐ってしまうと優生学者は反論するかもしれないけど、それ自体が短絡的で一方的な独断に過ぎない。
アベンジャーズのサノスってそういう奴な気がするな。その考えが合っている間違ってるは置いといたとして、社会全体が駄目になってしまう危険性を優生学者は強調するかもしれない。私はそれを論破する明確な根拠や考えを持ち合わせてはいないのだけれど、防ぎうる方法は想定できる。
それはまず集団を大きくする事、プールが大きければ個別のバラツキへの許容性が大きくなる。次に単一の一つの世界を目指さない事、すなわち世界国家、地球連邦みたいな集団にならないこと。個別の国家、民族、集団を認めること。それぞれの集団に栄枯盛衰があり、殲滅し合うようなことが無いこと。
これはカントの「永遠平和のために」の中にある平和連合のようなものではないかと思う。戦争を起こさないためではなく、サステイナブルな世界を作るためにもその方が良いと私は考える。
結論として、個人が個人の中の能力の分布を許容し、社会が社会の中の個人の分布に寛容であり、世界が世界の中の国家や民族の分布を容認することが良いことなのではないかという、ありきたりな考えを私は持っていることをここに記すのである。