「一歩」
春にしては珍しく冬の寒さが残っている4月。改札近くのパン屋の新しく出来上がったらしいパンのいい匂いが、行き交うサラリーマン達の間をうまく掻い潜っている。
「この時間でも、やっぱり混んでるな…」
大阪の中心地梅田中央回札前。水曜日の午後5時半、オレンジから黒色へと空の色が移り変わっている中、大学2回生の吉矢亮太郎は、午後の授業をさぼり「相手」を待っていた。
ディナータイムより少し時間がずれているから、そんなに人はいないだろうという予想に反した人混みの多さへのイラつきと、今後起きることへの緊張で吉矢の感情はよく分からなくなっていた。
「どうしようかな………帰ろうかな………」
そう思い、吉矢はスマホを取り出し、「アプリ」を開いた。そのアプリの画面を見ると、ますます逃げたくなる気持ちがでてきて、嫌な汗が吹き出してくる。
吉矢は顔をあげ、辺りを忙しなく見渡した。
「相手は、いない………?」
そう思ったら速かった。吉矢は素早くスマホの画面を暗くして、自分の家へと続く改札口へと走っていった。頭の中はもう帰ることでいっぱいで、周りの人なんかに注意して走っていなかった。先ほどかいた嫌な汗もいつの間にかいつもの汗に変わってた。
「また逃げるのか………」
そう誰かからの声が頭の中をよぎった瞬間、バンッと音がしてスマホを落としてしまった。どうやら向かい側から走ってくるサラリーマンとぶつかったみたいだ。
「すいません…」
吉矢はぶつかったサラリーマンに謝りつつ素早くスマホを拾い、スマホが壊れてないか確かめるために画面を明るくしロックを解除する。一通りポチポチと触り壊れてないことを確認した後、最後にデータが飛んでないことを確かめるために、アルバムアプリのアイコンをタッチした。
「良かった…壊れてはなさそう」
そう安心した瞬間、あの写真に気づき、あっ、と思わず声がでた。
吉矢はしばらくの間、同じサークルのメンバーの男と自分が肩を組んで写ってる、その写真を見つめ続けた。
その写真には、初恋の「男」か写ってる。
生まれて初めて勇気をだして、サークルが終わった後に告白しようとした男も写ってる。
サークルが終わった後、さっき後輩の女子に告白されたと嬉しそうに話してた男が写ってる。
それを聞いて、急いで作った、でき損ないの笑顔の仮面を貼り付け、良かったね、と伝えた男も写ってる。
これは自分に現実を突き付けてくれる写真だ。
吉矢はため息をつきながら立ち上がり、半ば諦めたように集合場所へと足を動かしていった。そして、その勢いのままスマホの画面を開き、ゲイ専用の出会い系の「アプリ」を開いて、自分が選んだ、今日初めて会う「相手」のプロフィールを再び確認する。
【だいきです!67kg 172cm 34歳の社会人です!今は恋人とかはあんまり求めてないかなー。ヤり友はいつでも募集(笑) 住んでるところは京都で…】
あの写真を見た後にそのプロフィールをみると、つい最近までストレートの男を好きで、その恋が実るなんて考えてた自分がバカみたいに思えた。
自分に残された方法はこれしかない。どんだけ理不尽だろうと、どんだけ悲しくても。誰も助けてくれない、自分の人生なのだ。自分は自分で、自分なりにゲイとしての道を進むしかない。正しいかは分からない。間違ってるかもしれない。だけど…、この道がどんだけ汚れていても…、僕はここから絶対に………。
そんなことを思いながら歩いていたら、相手との集合場所に着いていた。どうやらまだ相手は着いていないようだ。ふと、左拳に力が入っいたことに気づき、力を緩め、集合場所近くの太めの柱に寄りかかり、一息つく。
すると、なんで自分はこの相手を選んだんだろうとふと思った。アプリにはたくさんの男がいる。だけど、吉矢はすぐにこの相手にしようと決めたのだ。なんでだったっけ…と思い、もう一度相手のプロフィールを見る。
【…趣味は釣り!釣りできるやつも募集!…】
長々と書かれたプロフィールの中で、その文章に目が止まった。
「あぁ…成る程。釣り、か………。」
何かを思い出し、思わずフッと笑ってしまう。
「えーと、君がりょう君………であってたかな?」
と突然声をかけられた。吉矢は驚き、さっき笑ったのを見られたのではないかと冷や汗をかいた。
「あっ!はい!えーっと…だいきさんですか?」
「そうだよー。待たせたね。」
「いえいえ、そんなことはないですよ!」
もっと緊張して、何も話せなくなると思ったが、意外にもスラスラと言葉が出てくる。
「こちらこそ、わざわざ大阪まで来てもらってありがとうございます」
「あー、それなら大丈夫よー。よく来るからね」
なんでよく来るんですか、とは聞かなかった。
「っていうか、りょう君って思ってたよりも細いんだねー」
体をジロジロとなめるように見られる。
「そうですか…?」
「うん、思ってたよりはね。…そんじゃまぁ、行きましょうか」
いよいよか…、と吉矢は思った。だが、覚悟は決めてきていたのであまり動揺もしなかった。
「そうですね。場所とかも調べてあるんで、行きましょう」
そう言って吉矢はポケットからスマホを取り出す。Googleマップのアプリを開こうとアプリのアイコンを探していると、相手がスルッと僕の肩に手を置いてきた。
一瞬寒気がして、条件反射的に手を振り払おうとしたが、これから起こることに比べたらなんでもないようなことに思え、気にしないことにした。
外に出ると、空がすっかり暗くなっていることに気づく。吉矢はその男と一緒に、暗く、少し汚れた、ネオンが照らす夜の町へと向かって行く。
吉矢は、男性からは見えないところで拳を握りしめ、心の中でこう呟いた。
「絶対……、絶対にここから自分の幸せを見つけてみせる」