アンフェア・トレード(博論2025Jan04)
私のあってきた被害経験は、英語では、マニピュレーションと呼ばれている。
つまり、支配的にコントロールされて、不利な状況で搾取をされること。この定義は、もちろんやっつけだし、私は活動を定義してから話を進めることには反対の立場を取るのだけれど、とりあえず、便宜的に。
マニピュレーションとは言えないけれど、私がしてきた、また、まだしている被害経験は、アンフェアトレードと言うことが出来そうだ。
商業的な関係においてではなく、私的な、日常的な、個人的な、人間関係においても。
トレードとは、本来、交換、という意味である。貨幣を介さないものも数多あるし、貨幣で代替されるものも、包括的に考えると良いだろう。
ボランティアやドネーション、それから、感情的身体的ケアなどもこれに含めて考えると良いと思う。
私が日本の人たちにドネーションを求めて、何かを取り戻したいと大変に辛い思いをしていたのは、そのトレードを行うのに、アンフェアな関係におかれて、事実上、搾取されて終わったから、だと思う。
私は、何かをしてあげたから、何かをしてもらう、何かをしてもらったから、何かをしてあげる、それを、即時的にではなくとも、長期的な視点で、等価に行おうとする、そういうフェアなトレードをしているつもりだった。
例えば、日本的な言い方で言うなら、私は「先住民族のセクマイの発達特性の持ち主で虐待されて育ち、というような複層的な属性を持ち、それの改善のために、私的にも職業的にも尽くして生きている」ことと、等価な何かを得ること、を求めていた。
その何かは、金銭でも、愛でも、言葉でも、なんでもよかった。
しかし、全く等価でない。殆ど全てを犠牲にした、そんな感じ。だからもちろん難民しているんだけれど、日本の人たちにも、教育された良心があるなら、助けてほしい。そういう気持ちを今でも持っている。
なお、交換はフェアであるべきだ、というのは、どのような考え方なかの吟味も別に必要だろう。
つまり、いつ、何を由来に始まり、どのような過程を経て、どんな風に取り扱われているのか、など、現象の有り様を記述する必要があると思う。
とりあえず、以上。