GID中核群
元記事:http://blog.livedoor.jp/kozuesug/archives/52331343.html
おばさまは医療の専門家ではありませんから、あくまでもトランス文献での「扱われ方」と自分の体験だけで書こうと思うのです。まあ、私の考えとしては、単に臨床的に「性別適合手術(SRS)に向いた症例を、GIDのサブタイプとして呼ぶのなら、中核群」であり、「性別適合手術(SRS)を希望しないグループ」を「周辺群」と呼ぶ、くらいの定義で十分だとは思うのですよ。単なる操作的な定義、ということにしておきたいです。
いやいや、なんでわざわざ「中核群」という言葉を言挙げするか、というと、トランスジェンダー・クィア派の書くものを読むと、
・トランスジェンダーの「医療化」に反対する
という「政治的」立場のために、「古典的」とされる「中核群」の特徴を、「医療に対する迎合」として解釈して、「中核群」の実在を否定する主張が頻繁に観察されるのです。トランスセクシュアル・GID派の場合には、「中核群」的特徴を、結構自著に書いていて、それなりに説得力があると思って読んでいますが、トランスジェンダー・クィア派はそれをアタマから否定したがるのです.....トランスセクシュアル・GID派は一般に、「手術を求めない立場」の方にはあまり強い関心がない、というのはありますが、特に否定的な書き方をしているのにはお目にかかりません。トランスジェンダー・クィア派の「積極的な攻撃」とは非対称で、何か「不公平」な印象も強いのですよ。
なので、おばさま自身の体験から、いわゆる「中核群」な特徴があるのか、ないのか、ちょっと検証してみようとも思います。
・性の自己意識に揺らぎがない
→「がんばって、男、しなきゃ」と意識的に頑張りはしましたが、こういう風に「意識」しないとダメ、というのはやはり「女性の自己意識」のためなのではないのでしょうか。テストの時とか、女の側に〇つけて書いて、提出直前に直して出す、なんてよくしてましたから、女性意識は強かったですね。
・そう感じ始めたのは?
→「一次的」と言われる側の基準ですが、ホントに小さな子供の頃から、そう感じてました。いつからなんて、言えません。
・性指向が異性愛
→これも「一次的」と言われる側の基準。女性は同性にしか思えないですし、男性としか経験はありませんが...性欲は弱いです。性愛がピンとこない「アセクシャル」に近いかなあ。でも、同性愛か異性愛か、と問われれば、完璧「異性愛」です。
・身体的性別への持続的な嫌悪感
→これは、そうひどく強いわけではありません。でも、そもそも身体的に女性的な特徴が強く出ていたから、というのが「嫌悪感が強くない」理由のようです。典型的ではありませんが、「中核群」を否定する理由にはならなそうです。でも、男性とのセックスで男性器を触られるのは絶対にイヤでした....これは結構「中核群」的な特徴だと思ってます。勃起も嫌でしたね。恥ずかしくて死にそうになります。そっか、嫌悪感は私の場合ほぼ「男性器」に限定されていましたね。そのくらい性器以外が女性的だった、ということなのかもしれないです。
・身体とは反対の性への持続的な同一感
→だからこっちは大変強いです。身体、というよりも「性器とは反対の性への持続的な同一感」と言った方が私は適切でしょう。ホルモン使ってなくても女性的な脂肪分布パターンなど、自分の裸の身体に見ほれることもありました。「女性の身体って、自分のカラダと大した違いがなさそう....」なんて思ってましたよ。不遜、ですかねえ。女性の服装だってしっかり「似合う」のが、うれしいことでしたから。
ですからいわゆる「男の体に閉じ込められた女のたましい」とかね、そういう「神話」的なファンタジーはありませんでした。自分のカラダを「男」とあまり感じられない、というのが正直な気持ちした。「なんでこんな女っぽいカラダでオトコしなきゃいけないんだろう?」という疑問の方が強かったです...ホント、無理して男してましたから、社会的な性別を女に変えた時でも「のうのうと、女ができる!」というのが一番うれしいあたりですね。
やはり、女性の「カラダの使い方」は、筋力が弱いことからくる「合理」があります。そもそも女性並みの筋力しか私はありませんでしたから、「女のカラダの使い方」の方が私にはずっと楽でしたよ。「女っぽくしても叱られない!」は、「安心」という言葉と同じです。
・ホルモン治療や性別適合手術などの医学的治療を強く求める
→「求めない」わけでもないのですが、あまり期待してなかったです(苦笑)。ホルモンなしでも女装外出は全然平気、女子トイレも最初から問題なし.....の状態で「効き目は個人差あります」と言われるなら、「効いたら、うれしいけど?」と期待しないでおきますよ。でも女性ホルモン、よく効いて助かりました。性別適合手術(SRS)もいざ受けてみたら、深い満足感があります。ちょっとびっくり、です。これほど自分のカラダに納得がいくとは思いませんでした....
すみません、「医学的治療を強く求める」にしては、何か期待度が低すぎますか。ジェンダー・クリニックに通うようになっても、2年くらいホルモンを使ってなかったのは、「なんでこんなに自分は女っぽいのか、検査したらわかるかも? なら、検査結果を歪めさせるようなホルモンは避けておこう」というくらいの気持ちでした。でも、カラダの検査はカタチだけでがっかり。
性別適合手術(SRS)をずっとサボってたのは、仕事がまとまって休めないのと、戸籍も体も変わってなくても、女性で問題なくパスして仕事できて、社会生活になんの支障もなかったから、はあります。でもね....それでもやっぱり、性別適合手術(SRS)を受けたかったのですよ。
言い換えると、
(今更な)社会的なメリットがまったくなくても、性別適合手術(SRS)を受けたい!
という気持ちで性別適合手術(SRS)を受けたことになりますから、私くらい「純粋に性別適合手術(SRS)を受けたくて、受けた」人は少ないかも(苦笑)。今更何も変わらなくてもいい、それでも受けたかった、ということですからね。トランスジェンダー・クィア派で「性別適合手術(SRS)を受けたがるのは、戸籍を変えたいからだ!そして結婚したからだ!」なんて決めつけをされる方がいますが、タダの偏見ですよ、もう....
「中核群」=「性別適合手術(SRS)してうまくいく人」とするのならば、私なんて完璧に「中核群」になるのでしょうけども、実際の「定義」の一つ一つにきっちり「当てはまるか」というと、そういうものでもないようにも感じます。
それが「人生」ってもんでしょう?
まあ、カテゴライズなんてそもそも、その程度のものです。「定義」は具体的な現象から帰納的に導かれたものでもなくて、ギョーカイ内でのさまざまな力関係から、無難な落としどころとして「政治的に」決着する、これが世の中の実情かもしれないですよ。
言い換えると、「性別適合手術(SRS)をする根拠」として「定義」が求められるのならば、その詳細のいろいろに文句をつけるのも、あまり意味のあることでもないようにも思います。現実的に過ぎますかねえ(苦笑)
いやですから「中核群」は、やはり「あり」ます。そっちが実感です。
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