「はじめてのおつかい」が心をエグってくる。by障害児育児
息子に障害があるかもしれないと思い始めた時、私は見るのをやめた。
それは、「はじめてのおつかい」だ。
自分に子供がいなかった時、何も感じず見れていたし何なら子供もいないのに涙したりしていた。
それはお母さんに頼まれ初めての事ながら周りの人の助けを得て買い物を成功させた、その子に対して
「よくやったね」
「こんなに小さいのに頑張ったね」
と言う感動からの涙だった。
全国的にポピュラーな番組で、誰もが1度見たことがあるだろう、この番組。
障害児育児をしている方で、この番組を避けている方もいるのではないだろうか。
私ももれなくそうだった。
周り子と比べてできないことが多くなってきた息子。障害があることを現実として目の当たりにさせられて辛かった日々。
そんなズタボロの心に、塩でも塗ったろか番組
(表現申し訳ない)
それが「はじめてのおつかい」だった。
自分の子供と同い年。それよりも小さい子が、お母さんに頼まれたものをたった1人で買いに行くのだ。こんなの比べる以上の何者でもないじゃないか。なんて拷問なんだ。何なんだこの番組。
自分の子供と比較して、ただただ落とすこの番組。
見れたもんじゃないな。とCMで流れることさえ苦痛でたまらなかった。
私が大好きな歌手、宇多田ヒカルの歌で
誰かの願いが叶うころと言う歌がある
その歌の中に、こんな歌詞がある。
「誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いてるよ。」
いや、まさにこれである。
視聴者の大半はよくやったね。がんばったね。こんなに小さいのにねと、子供を持つ前の私と同じように感動の涙を流す。
しかし、その感動とは、裏腹の涙を流す人もいる。
この番組を見て、自分の子供がいかに遅れているのか健常児と言われる子の意思疎通の軽やかなこと、
人の手を借りながらも、1人で買い物ができること。
そんな子供を画面越しに見ながら、呼んでも振り返らない息子の背中を見て、この子は1人で買い物できる日が来るのだろうか1人で暮らせる日は来るのだろうかと心配なり涙を流す。
あの子が泣いてるよのあの子は私だった。
この番組が悪いと言っているわけではない。
障害児育児において、心をえぐってくるものは、番組に限ったことではない。
現代では避けては通れない、SNSも同様だ。
アプリをタップすれば、そこに広がる世界はキラキラしていて、同じ障害児育児をしている人間だと思えないような仏のようなママがいたりする。
部屋もピカピカでママもきれいにしてて、全然子供にも怒らないでニコニコしていて、私とは対照的だなぁ。と思いながらスクロールしていく、対照的すぎて「♡」なんて押せたもんじゃない。
子供のことを発信している人も沢山いて、同じ障害を持っている子供でもペラペラとお話をして意志疎通ができたり身の回りの事は自立していたり、お友達と遊べたり、自分の子供の障害はこの子より軽いとか重いとか比べてしまうのが悲しいかな人間の性だと思っている。
こういう人は、発達障害。
この年齢までに、これできなきゃ発達障害。
うちの子は何歳でしゃべり出しました。
3歳になったら言葉が爆発しました。
うちの子は何歳で歩き出しました。
みんな違ってみんないい。
個性個性個性。
すべての情報を鵜呑みにする事は無い。
自分が欲しい情報だけを受け取るべきだ。
もしその情報を見て、自分が不快になるのならば、すぐにそこを離れるべきだ。
今の自分のメンタルでは、抱え切れないものに自分から近づいていく必要はない。
「はじめてのおつかい」とは距離を置いている。距離を置き始めて7年近くになる。
もしこの番組を、今の私が見たらどう感じるだろうか。当時の私のドン底だった心を思い出して、悲しみに暮れるのだろうか。それとも健常児ってすげえーとなるのだろうか。
どっちにしろ、今はまだ見る気にもならないし、
そもそも番組自体に興味がないのかもしれない笑
恋人なら7年距離をおいての復縁はなかなか難しいだろう。だが私の7年は私が一方的に離れただけなのだ。いつでも会いに行こうと思えば会いに行ける距離にいる。年に1回は必ず会いに行ける。
私が歩み寄れば復縁出来るのだ。
私の年代ではまだ孫がいる人はいないけれども、友達たちに孫が生まれたりするとき、孫がいたらこんな感じなのかなと見たりするのかもしれない。
ふと、この文章を打ちながら
私は孫の姿を見ることはないんだなと思い
切ない気持ちになった11月の始まり。