外に出るのさえ辛くなった君へ。

これは、私に宛てた手紙のように、
私=君、と語り掛けています。

私がまた見返せるように、
そしていま、辛くなっている方に自分を重ねて読んでいただけるように。




君は今、辛くなっているだろうか。

今、外に出るのも億劫だと思うくらいに、
何の希望も無いと思うくらいに、
辛くなってしまっているだろうか。

君が辛くなってしまっている、その理由は
今これを書いている私にはわからないけれど

でも、私だもん。
君が毎日ポジティブハッピーな生き方をこの先一生続けているとは思えないよ。

何か、はわからないけれど
でも、何か、について色々考えて、迷って、悩んで、
辛くなってしまっているんだろう。

辛くなっていることは、特に悪い事ではないと思うんだ。

これは私や君がそういう性格だからかもしれないけれど、
沈まない人生、落ち込まない人生、
沈まなくて落ち込まなくて、楽だろう。

だけど、沈んだからこそ、落ち込んだからこそ味わえる、
苦しみや悲しみや、暗い感じなど

そういうダークな面に、君は少し、いや、確実に魅せられているんだったね。

蝶のように花のように、
いつも明るくて素敵な人にも憧れる。

だけど君は、
その人生の中で、一度も深く落ち込まない、考えない、
そういう人に、深みや魅力は感じないなあと、
どうしてかわからないけれどでも、
どうしても、そう思ってしまうんだったね。

とは言え、いつまでも落ち込んでる人にもちょっと腹が立ってきたりもするんだ。
それに、人生この先ずっと落ち込んでいたいと、
世界を呪って生きたいとは、思っていないわけだ。

平和がベースなんだけれど
ダークな面が、スパイスに欲しいんだよね。

だったら、悩む自分が嫌だと思っても、仕方ないんじゃないか。

きっと無意識でそれを求めてしまっているんだから。
それが欲しいって、それを魅力に思うようにプログラムされてしまっているんだからね。

ただ、
やっぱり悩みすぎるとね、深みに嵌りすぎてしまって、
抜け出せないわけだ。

そしてちょびっとのダークでよかったはずなのに、
あれ、周りに見えるものは全て暗黒と化している。

ここまでいくと、
ちょっと辛くなっちゃうんだよな。

そういうとき、
もう、外に出るのも嫌、外に出る理由も無い、世界が怖い。
そう思うとき、
そう思っても大丈夫だから、

少しだけ、外に出てみないか。

私は幸い、
可愛いものが好きだから、
ファッションにアーティスティックな強いこだわりは無いけれど、
でも、やっぱり可愛い洋服を見ると可愛いなあって思うんだ。

これ、着たいなあ、って思ったり
これ、履きたいなあ、って思ったり。
最近は薄い半透明みたいな生地の洋服が出てきて、
妖精みたいで可愛いと思うんだ。

洋服じゃなくたって
よく行くカフェに久しぶりに行ってみたりする。

そうすると、
あれ、店員さんが新しくなってるな、とか。
新しい食べ物が置いてあるな、とか。

来ているお客さんが色んなことをしていて、
ふうん、
なんて思ったりしながら横目に眺めてみる。

名前は伏せるけれど、
有名なあの輸入食品が沢山ジャングルみたいになって置いてあるあの店。

眺めてるだけで、
へえ、こんなもの開発する人がいるんだな、とか
結構これは便利なんじゃないの、とか
やっぱり私は海外が好きだな、とかね。

少しずつだけれど
充電されていくなあ、っていう実感が湧いてくるんだ。

今日なんて
よく行くカフェに行ったら、なんだか新しいコーヒー豆が入荷したとか何とか。
カフェラテとフロランタンを頼んだだけだけど、
新商品だからって味見用に、
おまけの眠気覚ましの小さな可愛いコーヒーまでくれたわけだよ。
あ、なんとなくこの人、長く働いてるよなあ、っていう店員さんがね。

君は
周りを見渡せば同じ年の人たちの流れからはとっくに遅れていて
世界は動いているのに自分は動いていない、と
何とも言えない焦りを感じながら
でもやっぱり納得しながら動きたい、という2つの感情に揺さぶられている、まあ葛藤状態な訳だ。

たぶん記憶に残っている頃だから、幼稚園生とか小学生くらいだろうか。
その頃から今まで、ずっと他人と比較してきただろう。

何故かはわからない、けど、そうやってずっとずっと、他人と比較してきただろう。
で、自分の足りないところにいつも目を向けて、
私にはここが足りない、ここも改善しないと、と思ってきただろう。

だけど、そんな自分を想像してみてほしい。
通りすがりの人を見ながら、ああ可愛い、ああスタイルがいい、と思いながら、
自分は可愛くないし、スタイルも良くない、ファッションだってあの人よりも可愛くないな、と少しだけ落ち込んだ顔をした自分を。

なんとなく、感じ、としてでいいから、
なんとなく、
なんか、自分がかわいそうな感じがしないだろうか。

ずっと
自分の身体にダメ出しをして
自分の身体ではない、何かにもダメ出しをして
頭だってそんなに良くないんだ、とダメ出しをして
その度に少し落ち込んで。

ちょっと変だと思うかもしれないけれど、聞いてほしい。
私は最近、この自分自身というものが、自分の身体とイコール関係であるのかどうか、という事に関して、
いや、それは違うな、という感覚に陥った。

自分自身=自分の身体、
これは違うな、とね。

ということは、自分の身体は、
結構毎日頑張って働いてくれて、動いてくれて
健康でいてくれてるんだよ。

だってその証拠に、
自分が熱を出した時、どんなに動きたくたって、
動けないってこと、あるよね。
それなんだ、
自分の身体=自分なのだったら、
自分は動きたいんだから、思った通りに動けるはずなのにね。
動けないんだよ、熱だからさ。
動け~!って思ってみても、いつも通り軽い足取りでは動けないわけだよ。

となると
あれ、自分ってこの身体というわけではないんだな、と気づく。

そして、まあ自分とこの自分の身体が一応は一緒にあるわけだけど
身体は自分が思った通りのはたらきをしてくれなくて
病気にかかったりすることもあるわけだよ。

なんていうか、ジブリで言ったらさ
カルシファーとか(ハウルのお城とか)、カオナシとかさ
そういう感じかな。(直感)

自分じゃない、でも、
自分と一緒にあるからさ
こう、面倒見るっていうか、労わってあげるというか、
動いてくれてるからさ
頑張ってくれてるわけじゃないか、
自分がここに行きたいと思ったら身体は動いて連れて行ってくれて
たまに頑張らせすぎちゃうことがあるんだよ、自分が。
それに耐えられなくて、疲れちゃって、熱を出したりすることがあるんだ。

頭だってそうだよ
頑張って考えるじゃないか
覚えるしさ
でも、忘れちゃうこともあるし
わからないことだってあるし、
もうこれ以上入らないなって
考えられないなってこともあるわけだよ。

で、帰国子女の学生たちがネイティブ英語交じりの日本語で会話をするのを横目で見ながら、
以前の私なら、帰国子女はいいな、って羨ましがっただろう。
だけどその時の私は、
不思議な感覚を持った。
ああでも、私は生粋のジャパニーズだけど、
頑張って英語勉強して一応会話くらいできるようになったんだもんなって。
この努力を私が認めないで、かわいそうだろうって。

その時感じたのは、
「愛おしい」という感覚だったと思う。言葉にすれば。

「自分を好きになろう」
「自分を好きになれない」

そういう言葉をよく聞くようになったし、
君も何度も思ったね。
この先ももしかすると、思うことがあるかもしれない。

でも君は、自分を”好き”という感覚がよくわからないんだった。
好き?って何?
君や私が好きなのは、本を読むこと、映画を観ること、飛行機に乗ることとか。
まあ一回くらい誰かを好きだと思ったこともある。

その好き、と、自分に対する「好き」の気持ちが
どうも一緒だとは腑に落ちなかったわけだ。

でも
「愛おしい」という感覚だったら、よくわかる気がしたんだ。
自分のペットだったり
可愛い鳥だったりお花だったり、
なんとなく大事にしたい気持ち。

それをじっくり深く味わう訳ではなかったし、
どちらかと言うとかなり一瞬の感情だったけれど、
でも、愛おしさを自覚したのは、大きな進歩だと思う。

私の今までの頑張りを私自身が認めずして、誰が認めてくれるのか。
結果結果ばかり言われるこの世界で、
どんなに沢山の努力をしても
比べる対象はうんといて、
なんだ、自分なんて大したことないんだ、こんな勉強したって何の役にも立たないんだなあと悲しくなって

今まで頑張ってくれた自分に、
頑張ったね。頑張ってくれてありがとう。
とは言わず、感謝の気持ちさえ持たずに、

それってあまりにも、自分に対して失礼というか、おざなりにしすぎだったんじゃないかなと感じたわけだ。

自分に「頑張ってくれてありがとう~~」と感謝することなんて
まったく意味がわかっていなかったし、
ほう、言葉ではわかっていてもどういうことだ?と混乱していた。

けど、ああ、今ならちょっとわかるよ。

身体も頑張ってくれたし、頭も頑張ってくれた。
心も頑張ってくれたし、何って具体物のない”自分自身”もなんだかよくわからないなりに頑張ってくれたわけだ。

あら、それじゃあみんな頑張ってくれてありがとうってチームメンバーに言わないとなあ、ってなんとなくね、思えてくるわけだよ。


君はいま、どんなことに悩んでいるだろう?
いや、悩んでいるのか、考えているのか。
どちらにせよ、どんなことに思いを巡らせて、少し足踏みしている状態なのだろう。

足踏みすることは悪くないよ。
長すぎると自分が疲れてしまうだけでね。

今の私は、ファーストキャリアという一歩を踏み出すのに、足踏みをしています。
みんなの速さについて行けず、みんなみたいに頑張れず、
あれ、どうして私は頑張れないのかしら、って
動け動けと言っているのに、どうして動けないのかって

休んでしまっている、そんな自分に
「休んでいる暇なんて無いのに。休んでたらもっと置いていかれるのに。動かなきゃいけないのに。どうして動けないんだろう。もう私はだめなのかもしれない。頑張れなくって、だめなのかもしれない」って
ずっと責めていたわけだ。

だけどよく考えたら、まあまあ今まで頑張ってたよなって。
身体も頭も心も総動員して、みんなで頑張って来たよなって。
じゃあ
これ以上無理に動かさせて
なんか不憫になってきちゃったんだ。

興味がないとか
なんか大変そうな方にいかないといけないんじゃ?みたいに思ってたけど
なんか、自分がかわいそうだなって、そんなことさせるの。

どう生きたらいいか、わからないな、って思ってた。
この数年、自分がどうしたいか考えて動いたはずだったけれど
やっぱり積み重ねてきた、答えを外に求める生き方は、まだいたよ。
いなくなったわけじゃなかったんだ。
隠れていただけでね。

あれ、そこにいたんだ、って昨日気づいたから
向こうも「ばれちゃったな」って感じだと思うけどね。
ま、でもこの子がいなければ私はここまで生きてこれなかったわけだし、
この子にも今まで頑張ってくれてありがとう~!ってお礼をしないとね。

答えを内側に、
あなたはどうしたい?って、自分自身に聞かないと、
この先もずっと、自分自身を無理させちゃう、頑張らせすぎちゃう、
ずっと責めすぎてしまう人生を送ってしまうと思うんだよね。

そう思っても、その生き方はまだ始めたばかりだから初めから完璧には出来ないと思うけど、

いま、真っ暗の中にいる君が、
どうか君自身を大事にすることを覚えていますように。
もし忘れていたら、これを読んで、帰ってこれますように。


コザクラインコちゃん