『やなせたかしおとうとものがたり』読む
父の死:
その時その瞬間の幸不幸では、
その後、もしくは最後が幸不幸か
どうかまでは測れない。
彼の深いところには、
かなしみが確かに
ある。
存在している気がする。
著作を読むと
確実に見え隠れする
それ。
特にこの『父の死』の語り口など、
悲しみがある、けれども
それをどこか他人事のように
少し距離を置いて
記述するような
置き方がみられる。
距離を置かなければ受け止めきれないから
だろうか。
羽海野チカさんの作品の
悲しみシーンを想起させられる。
それは対話としてではなく、
独り言としてでもなく、
内面の心情として
内省として
口からは発せられない
言葉として
誌面にだけ置かれる。
その心情が。
一人語りとして
誌面に描くことしかできなかったのだろう。
彼も。
分かる気がする。
母とのわかれ:
信じるしかなかったんだろう。
世界は母しかいないから、
あとは弟。
母を信じることで
二人いる。
母を信じないとなると
弟しかいない。
なんだか思い出す。
さよならホヤマン
おそらく帰らないだろう人に守られ、
でも縛られて呪われて、
それを向き合おうとする話。
ホヤマンには
フールやジョーカーともいえる存在がいて、
視点の転換を行ってくれた。
やなせたかしは、
他者の強い力は借りず、
否定もせずに理解に努めて
自分の中で少しずつ
消化していったように思える。
赤い着物:
弟が妹だったら
よかったのか。
妹だったら、
ケンカもさほどなく
兄が叔父の養子になり
家業を継ぎ
絵は描かず
戦地に行き
持ち前の順応性で
どうにかなった
のかもしれないが、
確実に違った経験をするのだろう。
やなせたかしは生まれなかっただろうし、
アンパンマンも生まれなかった。
何のために生きるのかの
疑問も考えなくてよかった。
それはある種の幸せとも
言えるのかもしれない。
考えることが多すぎる環境は
とにかく疲れる。
ただし、私の視点で見るなら
多くの不幸も経験をした
やなせたかしが
生まれたことで、
彼の作品を享受できた、
それは私自身の幸せとはいえる。
(やなせたかしの面白さに
開眼させてもらったのは
ごく最近ではあるがな)
何が誰のどの段階にとっての
幸せと言えるのか
はたまだ言えないのかは
本当に分からない。
できることは
その瞬間瞬間の幸せに気づくことしかない。
そう思える。
僕と弟:
そう。
なんだか目先に捉われて過ごしがち。
これを想起する。
目先の現実も大事なのは確か。
ただ、
創作だったり
やりたいことだったり、
変なことだったり、
夢的立ち位置のことを
少し差しはさむのも
忘れないように
意識させてもらえる。
やなせたかし良い。