バツ2になるのかもしれません
この人はわたしが苦しい時に救ってくれたから。そんな理由だけではないけれど、そこが大きくて、もう1度家庭を持つことを頑張ってみよう、と、10年前に人生2度目の結婚をした。
どうしても噛み合わないことがあったり、意思の疎通が上手くいかないことも、他人同士だから、前の結婚もそうだったから、なんとか話したり頑張っているうちに家族になれるかな、そんな風に思って、仕事が続かないことも、時に謎の行動をしたりすることも、なんとか自分の中で噛み砕いて、受け入れて、理解に努めようと思った。
息子が産まれて間もなく、わたしはパニック障害になった。初めての発作は横になっている時に起こり、お腹の痛みと息苦しさ、なにか痺れて気が遠くなる感じ、このまま死ぬのでは?という辛さに本気でこわくなり、おさまってから色々調べた。
パニック障害に間違いなかろうと思い、通いやすそうな場所の心療内科を見つけた。医師の診察とカウンセリングで定期的に通い、酷い発作を起こすことは少しずつ減っていった。
しかしまあまあお金がかかる。気に入らなかったらしい夫が、斜め上の解釈から通院をやめさせようとしてきた。パニック障害じゃないんじゃないの?キミとボクはよく噛み合わないし、アスペルガーなんじゃない?ボクのことわかってくれないもの。と、言われたことがあった。その頃、病院にも何かしらの口出しをしたらしい。次の診察でこういうことがあったと伝えて、理由付きで、あなたがアスペルガーなはずがない、とお墨付きを貰ったものの、それ以降の診察時の気持ちは針の筵で、引越しを機に通院をやめてしまった。
夫は興味を持ったものは何でも本を買う。アスペルガーの本を渡されて、読んだ結果、アスペルガーなのはあなたでは?という気持ちがわたしの中に存在していた。謎に感じていた部分が、色々腑に落ちる感じがした。自分でも色々調べて、どんな特性を持っているのか、家族はどんな風に接していけば良いのか、わたしも生きづらいけれど、この人も生きづらいのだろう、そう思って、協力し合って少しでも生きやすくなれば良いと思って、自分の考え方に力いっぱい穴を開けて、新しい風を入れた。
調べたことを少しずつ行動に移していった。手帳にメモを取りながら、どんな風にするのが最善なのか日々試行錯誤していた。この頃カサンドラという言葉も初めて知った。
診察を勧めたいとは思ったけれど、やはりデリケートな問題で、少し話題になった時に話してみたものの、軽く流されてしまった。
よくよく考えて、この人は発達障害かもしれないけれど、欲しいものは決定的な診断名ではない。どう接していけばお互いが過ごしやすいかが一番だいじで、アスペルガー疑いでその対処方法が合ってるみたいだから、わたしも勉強しながらやっていこう。そう結論を出した。
仕事も、全く長く続かなくて、辞めることも一言も相談無しに決めてくる。そして、自ら次に進もうとはしない。何度かあった繰り返しの中で、わたしもかなり疲れてしまった。もう、来月まで仕事決めてこないなら離婚する。そう宣言して、やっと動き出そうとし始めた夫に面接のアドバイスをし、励まして、笑顔で送り出して、決して豊かではないけれど少し安定した生活がやってきた。
働いてくれさえすればいい。というのもおかしいけれど、お互いやるべきことを分担して頑張ってくれてると思えるからこそ自分も頑張れるみたいなところはあって、他に満たされない部分があってもここからまた頑張っていける、そう思っていた。
しかし、昨年の暮れも近づいた頃、夫が突然、職場の人に言われたんだけど発達障害かもしれないから、と、病院に行き始めた。(それも事後報告だった)職場でも噛み合わなくて居づらくなったようで、発達障害の診断を貰い、また辞めることを1人で決めて、今年のはじめ、元旦からまた無職になった。
きっとしんどい思いをしたのだろう。
前回急かしてしまったこともあり、診断を貰った結果からも、前みたいな求職は出来ないようなので、口を出さず、穏やかに待つことにした。発達障害の人の職探しを助けるところに登録したから、と資料を貰う姿に少し安堵もした。わたしはなにも持ってないおばちゃんだけれど、この人は国家資格持ち。短時間でも良い、どこかにこの人の働けるところが見つかったら、わたしがそこに合わせて子育てしやすい範囲で働こう、良いところがみつかりますように。
気が付けば、なんだかんだで半年も様子を見てしまっていた。
仕事をしていた頃と変わらぬ暮らしを心がけていたけれど、ある日突然糸が切れたように全部嫌になった。子どもがいるので最低限のことはしたけれど、学校からのプリント類の整理ができない、手の込んだ料理も皿洗いも片付けも掃除も、やれない。作っておいても気が向いた時にしか食べてくれないし、好きにやってるし、もういいや、食べ物は置ける時に置いておくけど、この人のことを前向きにするのはやめよう。やめるし、やりたくないし、やれない、昔鬱になった頃の初期みたいな感じだった。
このままだとまた心が潰れる。
お皿洗いを放棄した。
鬱の入り口かもしれない。息子のためになることと、好きなことだけしよう。家事、してくれるならわたしがフルで働いて生活していけるだろうか。難しいかもしれないけれど、そういうことも考えていかなければ。
皿は洗ってくれるようになった。
ごはんも少し作るようにはなった。
元々一人暮らしが長い人なので、簡単なことは出来るはず。
徐々に細かい家事も覚えて貰えば良いだろうか。家事を任せられるならそういう形も、ありなのかもしれない。
少しそう思えるようになった頃、無言の排水口汚れてるよアピールをされた。調理後のフライパンに何をしたかは知らないけれど、シンクで小火も出しかけた。それがきっかけで、一気に全部がイヤになった。なんだろう、わたし、この人のいろんなところに気を配って、外への対応も全部やって、家事も一番大変なところはわたしがやって、色々心配して、それで働けるの?わたしが求めるものは否定されてなにひとつ返ってこないのに、何のために一緒にいるの?
一緒にいるための理由を探すようになっていた。それでもしがみつこうとしていた。
親が揃っていることを絶対とする人も多いと思うけれど、わたしは親が不仲の離婚家庭で育ったので、こんなものを見せるなら早く別れて欲しいと思う子どもの気持ち寄りで、あの気持ちを味合わせるくらいならわたしが出来るところまで我慢しようと思っていて、息子にはそういうところを一切見せないようにしてきたし、夫のことも一度も悪く言うことはしてきていない。
子育ての協力者としては、自宅内にいる分には、きちんと伝えておけば出来る人なはず。そういう方向性で頑張っていければいいのかな、いろんなことをモヤモヤ考えて、なんだろう、なんでこんなに頑張らなきゃいけないんだろう、これ以上まだ頑張らないとダメなのかな、思考がずっと同じところをぐるぐると回っていた。
季節は秋になっていて、毎日テレビを見て寝て好きなことだけしていて、引きこもって職を探す姿が一切見えない夫に、もう期待することをやめようと思った。仕事探す気も無いなら離婚して欲しい。そう伝えても、探している、発達障害だから時間がかかるのは仕方ない、見捨てないでくれ、と返答され、もう1年近く動く気配のない夫にまるでわたしが悪者になったかのような気持ちを感じた。
ここまで読んで、生活費の心配をしてくださったあなた。ありがとうございます。夫の親が、出すから耐えてくれと渡してくれていた。毎月息子の顔見せ訪問の時に、帰りに頭を下げて貰ってきていた。なんだかそれもとてもイヤになって、もう耐えるのも待つのもやめたい、もう良いかな?もう頑張らなくて良いかな?となり、3ヶ月行っていない。前回の結婚では心が壊れるまで頑張ってしまった。もう同じことにはなりたくないのだ。わたしのことを守れるのはわたしだけなのだから。
そう思ったけれど、離婚という言葉を伝えてもし本気で動いてくれるなら、という淡い期待が捨て切れていなかったみたいだ。母親が脅しで離婚を口にする人だったので、そういう使い方は絶対にしたくなかったけれど、最後だ、もう言わない。これで動かないならわたしがこの人から離れて動こう、そう決めた。
それから先も、この人は動かなかった。
3ヶ月会話もなく同じ家で暮らしている。
もう、いいかなぁ?
何か進むきっかけが欲しい、そう思った。
市役所食堂に新しいランチが出ると聞いたある晴れた日、うちからは少し遠い市役所まで自転車をこいで向かった。
地物野菜をたくさん使ったご飯を美味しく食べて、離婚届ってどうやって貰うんだったかなぁ…と上階からの良い景色を眺めていた。
食べ終えて、せっかくここまできたのにもやもやしても仕方ない、貰うだけ、貰うだけだから、でも戸籍の窓口まで行かなきゃ行けないのかなぁ、長くこの場にいるのも辛いなぁ、と思いながら市民課の案内係さんに声をかけた。離婚届はどちらでいただけますか?と声をかけたら、こちらでこのままお渡し出来ます、書き損じ用に2部、お入れしておきますね、とテキパキとした対応で渡してくれた。
あっさり用が済んで、なんだ、大丈夫だったね、よかったね、うん、大丈夫だった、大丈夫だったー、と駐輪場まで戻って、バッグに役所封筒しまいこんでいたら突然足が勢いよく震え出した。止まらなくて、あー、恐怖がタイムラグでやってきたみたいだな、と、泣きながら笑っていた。不審者通報されなくてよかった。
この期に及んで、これをすぐ渡そうと思っていたわけではない。どこかに期待を残したまま、微妙な迷いを残していた。わたしは息子を悲しませることをしたがっている。本当はまた壊れるまで頑張ればいいのだろうか。息子が一人前になるまで自分を殺して生きられるだろうか。いや、そんなことは無理だと思う。もうあの記憶を失いかけるほどしんどい鬱の気持ちを味わうのは嫌だ。
しばらく寝かせたけれど、ようやく、書いて欲しい、とまっさらな離婚届を一部渡した。
まだ、なにも先のことは無くて、わたし自身も前に進めてなくて、相談も話し合いも出来ないタイプのこの人とどう先を考えていけば良いかわからないけれど、残りの人生をこの思いで生きるのは嫌だ。それだけははっきり思ったので、渡した。
何かのスイッチが入ったらしい。わたしが少し休んでいる間に、息子を呼んで、パパはひとりで生きていくから、お前はママを守れと伝えたらしい。
何の前触れもなく、突然そんなことを言われた息子がどう受け止めるか、そういうことを考えられない人だということを忘れていたわたしが悪い。配慮が足りなかった。
泣きながらわたしのところにやってきた息子を抱き締めて、言われた言葉の全てを聞いた。息子には、今まで通り自分のことだけ楽しんでいけばいいよ、守るのはママがするんだよ、なんにも心配しなくていい。大丈夫、ママが守るよ、と伝えた。
心配していたけれど、夜もいつもよりぐっすり寝てくれて、今日も普段通りの息子だ。もちろんそれで大丈夫なわけではないだろうけれど、これまで以上に息子には気を配る。
わたしには戻れる実家も無いし、特別な資格も無いし、社会から離れて10年経ってるし、不安しかないけれど、踏み出すための区切りはつけた。
ほんとはおばあちゃんになるまで、かわいい奥さん、やりたかったんだけどなぁ。笑
結婚、向いてなかったのかもしれない。かわいい奥さんやれなかったのは残念だけど、もういい年だし、なにも望まない。憧れはここに置いていく。
わたしの視点で書いているから、夫には夫の言い分があるだろうと思っている。悪者にしたいわけではない。発達障害を悪く言いたいわけでもない。それを理由にしたいわけでもない。ただ、わたしの求めるものは返ってこない状況だった。協力し合うということを感じることが出来なくて、一緒に頑張れなかった。
これは、わたしがちゃんとここまでは頑張ったよってわたしに認めてもらうための記録。
ズレているかもしれないけれど、わたしは離婚するということを失敗と思ったことはない。今より幸せになるために進む手段であって、便宜上バツと呼ぶけれど、内容的にはカケル経験値、と認識している。
とても不安だし、また心が揺らぐだろうし、前を向くのが辛くなったりするかもしれないけれど、どうなろうとも、息子を守れるよう強くなって進もう。そう思っている。