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あの時考えていたこと


最近大学生とやりとりをすることがあり、自分は大学時代どんな人で、どんなことを考えていたのだろうかと過去の写真を見返した。

今思えば、大学1年〜2年は学生生活の基盤を作りながらも他大学への編入を検討したりして悶々と過ごしていた気がする。就職先のパイプの多さや評価されやすい環境をであることを理由に編入は得策でないという結論に至ると、今度は意地でも首席での卒業を実現させようと必死になっていた。

つらくも楽しい実習もそれなりの成績をおさめ、最終的に学校の教授へ提出した日誌に「よくがんばりましたね」と書いてあるのを見てとんでもなく嬉しかったことを思い出す。

そして大学3年生。なぜかこのあたりの写真データが消えていたが、(何かあったっけ?)「給付型奨学金制度」の応募書類が出てきた。希望者は応募用紙に動機を書いて大学に提出し、教授5名ほどと学長の面接を受けて結果が出るというもの。

私は2つ下に妹がいるということもあり、日本学生支援機構の奨学金を借りて大学に通っていた。つまり就職後には返済が待っている。

しかし今回の給付型の奨学金は名前の通り返済する必要がない。この学内の奨学金をゲットできれば、これから借りようとしている4年次分の奨学金を借りずに済む、という状況であった。

応募しない選択肢はない。

そしてその応募書類。応募理由を見返してみると、驚くほどに尖っている。それはもう笑ってしまうほど。つっこみどころが満載だが、あえてそのまま載せてみることにする。

「私は保育者を目指しています。他の誰よりも保育を学び、現場で生かせる知識をつけようと日々勉学に励んでおります。しかし私は現在受給している奨学金がなければ大学に通うことができません。大学まで進学しなければ様々な面で安定した職業に就けない時代なのにも関わらず、現実はこうです。しかし、後ろを向いていても仕方がありません。与えられた、また自分自身で選んだ環境の中で自分の保育観を見出し、幼稚園教諭になって、私なりの保育をしながら少しずつ返済していく予定です。そんな時、この給付型の奨学金制度が新設されたことを知ったのです。そして、「絶対に取る」と決めてそれも目標にして過ごしてきました」
・・・


自分としては、誰よりもと言ってしまっている部分が特に面白い。


そして最後の1文。

「奨学金という大きな荷物を、自らの力で少しでも減らしたい。そしてこれまで育ててくれた両親に認められたい。そう考えています。これが私の申請理由です」

「そこなんかーい」と自分で自分につっこんだ。これでよく通ったなとも思う。もし今同じことができるなら、実現したい保育の未来を語るだろう。

ただ、これを読んで当時なにを考えていたのか鮮明に思い出した。

我が家は一般家庭。母は私の妊娠を機に仕事を辞めた専業主婦。父は会社員。生活には困らないけれど、贅沢はしないという生活。

小さな大学ではあったが、入学してからいろいろな人と出会い、その生活ぶりや親の武勇伝を聞いて差を感じてしまったショックをかなり長い間引きずっていた。いわゆるお金があるから入れる大学に通っていたわけではないが、「ベンツに買い換えた」「今年はハワイに行ってくる」「南麻布のマンションに住んでいる」といった言葉を聞いて「こういう人たちもいるんだな」と改めて実感したのであった。

親には「いい大学にいけ」「いい成績を取れ」「大きい園に就職しろ」こんなことを言われ続けていた。世間的にもまだそういった流れであったと思う。しかし大学に入るのにも、入ってからもお金がかかる。それも膨大な。大学に入るために塾へ通えば、もっともっとお金がかかる。

高卒では認められにくい世の中。「子どもの貧困」は授業でも取り上げられていた。しかし大学に入るにはお金が必要。もちろん本当に勉強が楽しく(または目標に向かって)自力で国立大学に入る方もいるが、ごく一部であることは間違いないだろう。

そんな現実にモヤモヤを抱えていたのだ。ある意味、初めて社会の難しさとぶつかった瞬間だったのかもしれない。

それから、最後の「親に認められたい」という一文。

なんという承認欲求の塊だこと。

今思えば、当時はやることなすこと全て親に認められる、褒められるためにやっていたように思う。そこに自分の意思などない。ただ認めて欲しくて、親が認めてくれそうなことをする。それでも父がハイタッチをしてくれたのは卒業時だけだった気がするけれど。

そしてまた厄介なことに、これらを成し遂げてしまうと今度は妹にプレッシャーがかかっていた。

私が気づけなかったから、悪循環が生まれていたと思う。

こういった体験から、幼少期にかかわる大人の危うさについて深く考えるようになったのだろう。

ここから数年かけて、親や、褒めてくれる先生、友達たちから脱却していくわけだから面白い。我ながら、よく抜け出せたなとも思う。今では人からの評価をさほど気にせず、自分の意思、思い、考えに沿って行動できるようになってきた。(ちなみに奨学金の選考結果は1位。満額をゲットした)

時折(どころか多くの場面で)我が強く出すぎて反省することもあるが、人にどう思われるかを気にしていつの間にか年齢を重ねるくらいなら、こっちの方がいいとすら思えてきている。さらに、世の中の「仕方がないこと」つまり「自分の手ではどうしようもないこと」には時間を使わないようになってきたが、こんな自分と一緒にいてくれる方々には頭があがらない。


自分の意思で生きていくのは面白い。昔の私に伝えたいこととしたらこれだろう。


今の「自分の意思がない若者」にはどんな理由が潜んでいるのであろうか。



こゆめ

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