時代に適応する母の進化について
情報が溢れかえっている時代。だと言われる。
もちろん、情報は過去も昔も、一人の人が人生をかけても取りきれないくらいそこらじゅうに散らばっていた。然るべくして入手できるものから、偶然手に入るようなものまで、あらゆる情報がその人の一生について周り、折に触れ、助けたりまたもしくは苦しめたりしたはずだ。
それは今も昔も変わらない。
現代、多くの人が気づいている通り、世間に浮遊する情報量そのものが増えたのみならず、本来なら自分の領域に入ってくることすらなかったものが、半ば強引に目にふれるところまで侵入してくることがある。これは言うまでもなくSNSやネット情報の類である。
よく言われるところで、嫌なら見なければよいし、自ら距離をとることもできるのであるが、必要があって使うツールからも同じように情報が溢れかえっているものだから、そうしたものと無縁でいられる人はいないのではないだろうか。
取捨選択、情報そのものの価値の見極め、発信者や発信の経緯などの裏付けの確認、自分の時間を割くべきものか否かの判断。それらは必要な情報を手にいれるために必ずついてまわる。なんとなれば、欲しい情報を入手し、それを活用する以上の時間が、それらの「無視する」作業に必要である。
もう随分と前から、こうしたことに自律的に対処するためにメディア・リテラシーの向上が叫ばれてきた。そうはいっても、特定の、あるいは、ひとわたりのことを知り、定石を踏めばよいというものでもなく、このリテラシーの習得および活用の水準は属人的な差が大きいと言わざるを得ない。
時代の移り変わりは激しい。求められるリテラシーも常に変化する。それに適応するというのは、並大抵のことではない、と思うのだがそれは普通に、ごく当たり前に普通の人々に求められている。
また、そもそもリテラシーを身につける以前に、ただそれを使う、ということでさえ、難しいと感じる人もいる。この世の中で快適に、必要十分に生きていくことは、実は結構難しいのかもしれない。
私は昭和の終わり頃に生まれた。今、この情報社会で生きるために毎日使っているようなものは、当時私の身の回りにはまったくなかった。個人用のパソコンが自宅にあるような時代ではなかったし、携帯電話はもちろん、インターネットも言わずもがな。
私が小さな子供だった頃は、遠方の人と話すときは、手紙か固定電話だった。
祖母はよく美しい絵葉書を書いてくれた。珍しい切手を貼って楽しませたりもしてくれた。時には外側がふわふわと丸く盛り上がるほど、たくさんの便箋が詰め込まれた和紙の封筒も送られてきた。ペン字なのに筆で書いたような達筆の祖母の手紙は、当時の私には解読が難しかったものだが、便箋からは「おばあちゃんちの匂い」がふわっとたちのぼり、それで仏間の日差しとか、台所に立つおばあちゃんの背中まで思い出すことができた。
いつも最後に、元気でね、と締めくくられていて、元気でいなければいけないのはおばあちゃんの方なのに、小さな子供の元気なんかなぜ心配するのだろう、と不思議に思っていたものである。
手紙のやりとりがあっても、電話で話すことはまた別で、お手紙ありがとう、と電話でお礼するのも恒例だった。祖父母の家が遠く、あまり頻繁に行き来できなかったので、両親からはよく、おばあちゃんたちに電話をかけて声を聞かせてあげて、と言われていた。
今ならかけていいよ、と言われると、ぐるぐるまわすダイヤル式電話(使ったことない人っていま国内に何%くらいいるのだろう…)を自分でかけて話をした。固定電話は緊急時の唯一の連絡先だったから、たしか幼稚園くらいの年齢の頃には、自宅の番号と両方の祖父母の家の電話番号を暗記していたのではなかったか。
電話はかけたら話せるもの、だったし、もし相手が応答しないなら、タイミングが悪かったか、お留守なのかな、くらいで誰も気にすることもなかった。そもそも私たちにとって、電話はただおしゃべりするためのものだったのだ。
同世代、または近しい世代の方にはよりわかってもらえると思うけれど、私がぼんやりと生きている間に、世の中はものすごいスピードで変化していった。機械化、という意味ではその少し前から加速が始まっていたと思うのだが、情報技術の面では、1990年代から2000年頃にかけての変化は、その前の10年と比べても、怒涛のごとき圧巻のスピードだった。
冒頭に述べた、かつてなかったパソコン、携帯、インターネットといったツールが、あっという間に身の回りにそろった。特に携帯電話に関しては、市販された初期の携帯から現代のiphoneまでを、ここ20年くらいですべて大人として見てきたのは、今の40代から60代くらいの人々ではないかと思う。急激な進化と変化を、実際にそれらを使いながら経験しているものと思う。
数字しか表示されないポケベルみたいなものが、あっというまに折りたためる携帯電話になった。モノクロ表示だったのにいつの間にかカラーの画面になり、動画やテレビ放送が見られるようになった時には、大げさでなく本当にびっくりしたものだ。
就職活動がまだ紙とハガキ(資料請求、という最初の関門に必要だったのである)だった世代だけど、大学生の頃には携帯電話を持つようになっていた。と言っても、まだ就職活動で携帯に企業から連絡をくれるというようなこともなく、ただ同じように持っている数少ない友達だけがアドレス帳に登録されているという、おもちゃみたいな使い方だった。それでも新しいものに興味のある私は、家族の中で一番最初に携帯電話を手にした。
何に使うんだ、と訝し気な家族をよそに、まれにしか着信しない携帯に装飾を施し、苦心して着信音を数字キーだけで作曲したりして楽しんでいた。
母と祖父母との連絡は当時もまだ固定電話で、お互いに生活スタイルもわかっているから、かけても出ないとか、連絡ができない、なんていうストレスも感じていないようすだった。電話とはかけたら話せるもの、だった。だから、どちらも留守番電話すら設置していなかった。
しかし、実家暮らしのまま大学生になった私が、以前よりも遅い時間まで帰ってこないことが多くなり、そうなると心配した母が私の携帯電話に電話をかける、という機会も増えてきた。
当然、祖父母のように狙った時間に電話に出る、というようなことはない。なにしろ外を「ほっつきまわって」いるわけだし、当時はまだ電波の届かないところがたくさんあったので、いつかけても電話で通話できるというわけではなかったのである。
それは母にとっては相当なストレスだったようだ。気になるからかけているのに、全然出ない、つながらない。電波ってなんだ。電源が入っていないってどういうことなんだ。
母の電話がかかってくることはわかっていたのだけど、私は留守番電話の設定をあえてしていなかった。なぜなら、当時はあまりたくさんの件数を保存できなかったので、もし設定したら母のメッセージだけでいっぱいになってしまうのではと心配していたからだ。
しかし、あまりに電話に出ないことに痺れを切らした母から、ついに留守番電話を必ず設定しておくようにと言われてしまった。
しかたなく従うことにした。
留守番電話を設定しておけば、万事解決だと思い込んでいたが、そこには誤算があった。母は、人生でまだ一度も留守番電話を使った経験がなかった、ということだった。(これは時代を考えてもちょっと遅い、ただ多分に環境によるものであると思う)
ある日、帰りが遅くなることがわかった時点で、私は母に連絡を入れた。そうしておけば、心配させることもないし、留守番電話で手こずらせることもないだろう、と思ったからだ。しかし、母はそこから時間を計算し、自分が帰ってくるだろうと見積もった時間に私が帰って来なかったことで、やはり気になってしまった。そこで電話をかけた。私が普段使う電車はトンネルの中を走るJRや地下鉄だったし、車内では通話もできないから、すでに帰途についているとしても、やっぱり電話はつながらなかった。
ついに、母は、人生で初めて、私の留守番電話にメッセージを残した。
普段、電話で話す時の母は、私の帰りが遅いとあからさまにぷんぷんと怒っており、向こうで仁王立ちして話しているのが想像できるような声だった。それなのに。
電車を降りると、携帯電話の画面に、留守番電話が登録されたことが表示されていた。1件。きっと母に違いない。もうあと20分ほどで帰宅できるのだが、電話をかける前にメッセージを聞いておこうと再生した。
1件のメッセージを再生します、◯月◯日、午後11時46分。
「えーっと・・・えーっと」
母の声であることは明らかだが、いつもの勢いがない。何かあったのかと身構えてしまうくらい、様子がおかしい。
「もうすぐ、帰ってきますかぁ」
小さな声で話し始めるが、すぐ、わずかにうろたえた様子に変わった。
「 あ!あれ!これは、こゆきちゃんの電話で合ってますかぁ」
いかにも心細そうな声で、本人は仁王立ちにはなっていないようだった。
「えーっと、えーっと、鍵はあけてありまーす、それから…えーっと」
ばさばさっと受話器になにか触れる音がして、母が受話器を手で押さえたらしいことがわかった。電話を取り次ぐときにやるやつ、なぜ今やってるのだろう。くぐもった母の声が聞こえている。
(えーっと、どうやって、終わろう?)
終わり方がわからない。
思えば留守番電話に初めてメッセージを残す時、私も似たようなことを考えた。話している相手なら、ばいばーい、とか、失礼いたします、とかいって相手が切るのを待てばよかったのだが、留守番電話では、一人で語り終えたら自ら決着をつけなければいけないのだ。
しばらく思案した母はやがて、がさがさ、と音を立てて受話器から手を離し、こういった。
「えーっと、えーっと・・・・・・あの、お、おかあさんでしたぁ」
他に思いつかなかったのだろう。留守番電話は一人芝居のようなものである。見えない相手に、じゃあねぇ、というのも空虚だ。それじゃ、とクールにガチャンと切るのも性に合わない。その結果、母が選んだフレーズは
「おかあさんでした」であった。
いつものようにぷんすか怒っている声を再生することになると思っていた私は拍子抜けしてしまった。と同時に、苦笑ともなんともいえない笑いが漏れた。
怒る相手が電話の向こうにいない。だから怒りを露わにできない。
なんの反応もないのに、じゃあね、とか、はよ帰ってきなさいな、などと「話しかける」こともできない。
どちらも、よく理解はできる。誰だって、以前はなかったイマドキのやり方を初めて試す時は、薄ら恥ずかしい気分がするものだと思う。例えば私はいまだに、ヘイ!だとかオッケー!だとか芝居じみた言葉を使って機械に話しかけるのは、小っ恥ずかしい、と感じている。もっと自然に話しかけてはいけないものだろうか。きっかけとして特殊なワードがないと、誤動作して大変なことになるのかもしれないけれど、名前かなんかを自然によびかけるのではダメなのだろうか。
呼びかけて相手が見える状態にしないと、一人で話しているみたいでとても恥ずかしい気分になるし、話しかけるにしても、普段人に話しかける時とは違う、うっすらとしたしらじらしさを感じてしまうのである。
それに、反応もないのに会話を終わらせる、というのも自然な人間のコミュニケーションスタイルにはないものだ。そもそもそんな終わり方は不穏な状況でしか起きないし、これでいいのかな、と感じるのはごく自然なことなのだと思う。
だから、母はアナログ時代の人間として、ごく当たり前の反応をしたのだ。
怒っている留守電のメッセージになんと弁解しようか、玄関で仁王立ちだったら最初にどんなテンションで話そうか、いろいろ考えていたのに、全部無駄になってしまった。遅い時間に自宅の固定電話を鳴らすのは気がひけたので(留守番電話がないから、家に電話をかけたら夜中だっていつだって盛大に鳴るのである)、そのまま早足で帰った。終電があるうちは家に帰って来る見込みがあるので、それまでなら母はもう一度電話をかけてくることはないだろう。
暗く寝静まった住宅街で、うちの門灯が煌々とあたりを照らしていた。
鍵の開いた玄関をそっと開けると、そこで待っていたのは仁王立ちの母ではなく、犬だった。騒ぎ立てることもなくのっそりと伸びをしながら体を起こし、私が靴を脱ぐのを、ゆらゆらとしっぽを振って見守ってくれた。キッチンから水を使う音が続いており、母はまだ私の帰宅に気づいていないようだった。
靴を脱いだ私が玄関マットに足をのせると、犬は遅かったねとばかり小さく声を上げ、廊下でちゃかちゃかと爪の音を立てた。
母は犬と私の声を聞いて廊下に出てきて、あら、帰ってきたの、と実にあっさりしたものであった。
留守番電話には意外な効果もあるらしい。玄関で母が怒らなくなる。
やがて、就職して家を出てからも、母は留守番電話にときどきメッセージをくれた。少しずつ、ぎごちなさは減っていったけど、やっぱりいつでも最後は「おかあさんでした」であった。時代に対応し、留守電に少しずつ慣れたけれど、それでも、一人で話して勝手に会話を終えるのは気持ちが悪いと言っていた。
留守番電話にメッセージを残すことにすらうろたえていた母は、今ではついにLINEを使うことを覚え、「おかあさんでした」という留守電を聞くことはなくなってしまった。LINEも返事が来るまでは一方通行であるが、既読になるので一人芝居の感覚は減るそうである。少しずつ、以前とは違うコミュニケーションの取り方に、適応してきている。
私の世代(いわゆる氷河期世代)は、直接巻き込まれた結果、否が応でも時代の変化に適応せざるを得なかった。学生時代にまともにさわる機会がなかった人もまだたくさんいたが、会社に入る頃にはパソコンが使えて当たり前、などと言われたし、いつのまにかSNSのネットワークにとりこまれ、Facebookのアカウントがないと友達が結婚したとか「話題」になるようなことも、耳に入って来なくなった。目で知るようになったためだ。
その一方、母の世代には無理に適応せずとも、ないならないままでやっていける、というような感覚があった。母の場合、仕事で必要にかられるとかいうこともなかったので、使い慣れないツールを使おうとしたのは、私や妹との連絡手段を確保したいがため、であった。ただ話すためのツールだけではなく、母の場合は好きな写真を撮ってそれを加工し、せっせと印刷したものを遠方に住む(音沙汰も愛想もない)娘たちに送る、という新しい形のコミュニケーション方法も編み出した。これまで使ったことのなかった道具で、これまでにないつながり方を見つけたのである。
実家でひなたぼっこする猫や、紅葉が盛りの街路樹、犬がいたときによく散歩した公園、近所のお寺にお参りに行った時の写真。
撮りためては、何らかの加工を施し(何をしているかはよくわからないけれど)、印刷して封筒に詰めて送ってくれる。最近は目が見づらくなってしまったため、手で文字を書くのはちょっと面倒になってきたようで、「大事な用事」はLINEで届くようになった。
若い世代の人にとっては、機械に対応できない古い人たちだと思われているかもしれないけれど、固定電話が文明の利器だった時代の人が、よくぞここまで、と私は思う。留守電を克服し、やがて携帯メールを使い始めた時などは、半角カタカナだけの脅迫状のようなメッセージが届いたこともあるし、LINEに初めて挑戦したときもやっぱり一悶着あった。意図しないボタンを押したとか、通知がわからないとか、変換がうまくいかなくて文章が予測変換だけでできあがってしまったりとか、本当にえっちらおっちら進化してきたのだ。ビデオ通話ができることは知っているのに、こちらは恥ずかしいという理由で使ってくれない。そのくせ顔を見たいと言ったりもする。
さっきLINEに通知が届き、母からのメッセージを見つけた。ちゃんと、漢字混じりのいつも通りの文面で、改行もして書いてある。進化していると思う。本当に。短いメッセージだとぷっつり会話が終わったりするが、少し長い文章を書いた場合は、いつも同じだ。
「じゃあ元気でね、おかあさんでした」といって文章は終わる。おばあちゃんの気配も、まだそこに残っている。
世界はゆるやかに、それでも確実に変わっていくものらしいけれど、以前からあるものと融合し、固く繋がっているのだ。
進化とは、すべてをかなぐり捨てて進むことではないんだな、と思ったりする。
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