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それから~父死す12~
2か月たった。自分で思った以上に気持ちが落ちてしまい、仕事を探す気力もなく、何も深く考えきれない。なかなかうつろである。家の中でじーっとしているうちに一日一日過ぎていく。情けないなあ、普通の人は親が死んでも子どもがいなくなってもちゃんと働いているのになあ。些細ないっこいっこに心が揺らいで泣いてばっかりで、やっぱり自分は弱いなあ。だめだなあ。などと悲観して卑下して一日が終わる。死ぬってなんやろう、生きるってなんやろう、と暇さえあったら考えている。死んだらどうなるのか誰も知っている人がいないという怖さ。まだまだ小学生みたいなこと考えてます。
死ぬこと以外はかすり傷、とよく言われる。死ぬことはやっぱり生きてる者にとって最大最強の衝撃で、死以上にやばいことは無から生まれてくることぐらいのものだ。生と死はひとつづきで、みんな必ず死ぬ。死んだ後のことはまじで死んでみないとわからない。父が死んで、父は今どこにいるのだろうと思うけど、実際はどこにもいない。生きている間はこの体で思ったり考えたり感じたりするけど、父には体がないからそういうものはもうない。父の使っていた遺品にまだまとわりついている気配が私の中で薄れていく父をつなぎとめている。霊的なものがあるとするなら、体はなくてもまだ父の魂みたいなものはこっちにあるのかも、と時々声に出して話しかけてみたりするが、それは、私の記憶のなかにある父に対して話しかけているのであり、霊体となった父にはたして声は届いているのか。あの世というものがあるなら、そっちでみんなで楽しくやっていてほしいし、私たちもいずれそっちにいくから、またそこで旧知のメンバーとおもしろおかしくやりたい。そこにはもう痛いのとかつらいのとかはなくて、ただただ楽しいだけならありがたい。あるいは、魂というものは体を抜け出すとはるか地球外に飛んでいって、宇宙のどこかでイェーイお待たせ~って再集合するのかもしれない。でも、そういうことがほんまにあるのかどうかは死んでみないとわからない。死後の世界があったらいいな派ではあるが、実際はただ無になるだけなんだろうなーとも思う。
なにせ、生きていると痛すぎたりつらすぎたり、ひとつひとつが重いししんどい。うれしいたのしいももちろん、人生にそこそこ散りばめられている。でも、どっちの配分が多いかというとしんどい方だろうな。当然ラクはしたいけど、生き物ってそもそも断然苦行のほうを選んでしまう習性になってるんじゃなかろか。生きているうちのつらいの苦しいのが死んで終わってまったくの無になるならそのほうがいい。夏の暑さを愚痴ると「暑さの不快も病気の痛みも生きてるからこそ感じられるものだからありがたく思わんばー。死んだら暑いもくそもなかけんね!」、と言われたりするが、ほんと、生きているからつらいも痛いも苦しいもあるわけで、それを終わらせられるのは唯一死ぬことだけ。自死についてはいいも悪いもなんもおすすめもしないが、消えてなくなってしまいたいような恥ずかしい思いも気絶するほどの苦痛も謝っても謝り切れないような悔悟も、死んだらもうナシ。逆に生きているからこそ感じられるんだ。
どんなに致命的なピンチも、ほんとに死なないかぎりは終わらない。生きている間に味わうすべてのできごとは、生きている者に与えられた特別なプレゼントなのかもしれない。死んだらあんなに胸が張り裂けるような、胃がちぎれるような、体に電気が走るような、などというあらゆる感情の爆発を身をもって体験することはできないんだしな。どんなことも死ぬことに比べたらまだたやすいのかもしれない。生きている者の考えることなんて、どんな知の巨人でも、悟りを得た人でも、全体の真理みたいなもののうちのほんのひと匙分程度にすぎないのかもしれない。死んだ人に比べれば。すべての死んだ人に最敬礼だな。
そんなことを日がな一日考えてぼんやしている。