一緒に大海を旅する「3.11」~「浜辺の料理宿 宝来館」女将・岩崎昭子さん~
「とうほくのこよみのよぶね」が釜石市の鵜住居町で今年も開催された。
岐阜市で冬至の夜に開催される「こよみのよぶね」。その制作リーダーが東日本大震災の復興支援にあたっていたことがきっかけで始まったのが「とうほくのこよみのよぶね」だ。「3.11」の数字の行灯を竹と和紙で作り、舟形のフロートに乗せ海に浮かべる。
会場は「浜辺の料理宿 宝来館」の目の前にある根浜海岸。
震災時は津波が襲い、裏山に逃げる人たちの様子や被害状況などが報道された場所である。
開催にあたり毎年ご協力をいただいている宝来館の女将、岩崎昭子さん。人を惹きつける笑顔と、故郷に帰ってきたかのような心地よいおもてなしに「女将さんに会いたいから泊まりに来るんです」という宿泊客もいる。
海を眺められる旅館のテラスでお話を伺った。
空にいるみんなが「3.11」の船に乗って帰ってくる
─── 今年も追悼行事、復興と鎮魂の花火「白菊」の打ち上げと「とうほくのこよみのよぶね」が無事に開催されました。今のお気持ちをお聞かせください。
岩崎さん:私たちは来てくださるみなさんとこの時間、空間を手探りで作ってきました。今朝も日比野先生(こよみのよぶね総合プロデューサー・日比野克彦氏)に話したんですけど、今年は海も穏やかで、私たちに幸せをくれるような「3.11」 でした。
─── 今は根浜海岸で行われている「とうほくのこよみのよぶね」ですが、以前は別の場所で行灯を浮かべていました。その頃からご存じでしたか?
岩崎さん:初めて見たのは甲子川で、私も最初は知らずにたまたま見て「なんだろうこれは」と思いました。
その当時はまだ川の中に瓦礫やいろんなものが残っていました。川はとにかく悲しみの場所みたいな感じでした。
そこに光る「3.11」の船があるのを見た時に、こんなふうに私たちを慰めてくれる人がいるんだと感激したのを覚えています。「あぁ頑張らなくちゃいけないな」と思いました。
─── 岐阜の「こよみのよぶね」チームのなかでは、この活動や自分たちのことを受け入れられていないと感じていたこともあったようです。しかしここ5、6年で皆さんの表情が変わってきて、受け入れてもらえたのかなと思うと話していました。
岩崎さん:ここ根浜海岸でやることになってから、嵐の年やコロナがあって、せっかく作った行灯を海に浮かべることができず、松林の中に立てたこともありましたね。それでも諦めずに行灯を作り東北まで来てくれるその想いが伝わっているのではないでしょうか。
この海に浮かぶ「3.11」を初めて見たときに思ったんです。「あぁ、あの船は空にいるみんなを迎えに行ってくれて、終わったら別れを惜しみながら、みんなはまた空に帰っていくんだ」と。
ただの明かりではない、そう思って眺めていましたね。
─── そのように思っていただけるのは岐阜のチームも嬉しいと思います。
岩崎さん:宝来館のデッキに竹で球体を組んでくださったときのことも印象深いです。その中に寝転がってドーム状の天井を見上げた時、私は海を旅している気分になったんですよ。
あの感覚は不思議でした。空が見えて、そこに和紙で作った手まりが揺れている。ここが空なのか海なのか曖昧になる感じ。
手まりが空にいるみんなに見えて、船の上の「3.11」に集まって大海を旅しているように思えたんです。
そのみんなの気持ちを私たちはこのドームの中で感じられる。ここと海が繋がっているような、一緒に旅しているような感覚でした。
地元のみなさんにも感じさせてあげたいですね。
海とともに生きる
─── 私は岐阜で育ったので海を見ることは特別で、今回東北でこんなに穏やかな海を見られて感激しました。海の近くに住んでみたいという憧れを抱いていた時もありましたが、東日本大震災の津波の映像を見たときから憧れより怖さが勝って……
ここに住み続けることは岩崎さんにとってどのような思いでしょうか?
岩崎さん:私たちは海と一緒に生きるのが当たり前なんですよ。怖いとか怖くないとかというものではなくて。
海がしければ怖いし、 恐ろしいもんだなって思う瞬間もあるんだけれど、ほとんどの場合はこういう穏やかな海で育ってきました。
ここに住む人たちは海に生かされているって思っているのではないでしょうか。自分が海の一部のような、海と自分たちが一体となっていることを震災を経験してより強く感じます。
うちの村の人たちもね、内陸に避難してすぐのころは「絶対戻らないぞ」って言っていたんですよ。
「なんでこんな海のそばで生きてきたんだ」「津波が何回も来ているだろうよ、ご先祖様」って。
でも3週間後にはみんな異口同音に「戻ろう」って言ったんですよ。海を見ていないと生きられないってわかったって。
誰もが最初は本当にもう懲り懲りだって思っていたんですよね。
でも離れてみて、そうじゃないって自覚する時間があって。
他の土地に行っても水を探しますもん、海でなくていいんですよ。川でもいいし、池でもいいんです。
ここからは180度太平洋が見られて、なんと向かい隣はアメリカなんですよ!
─── 隣がアメリカってかっこいいですね(笑)
岩崎さん:三陸って日本のチベットって言われているんです。へんぴな場所だって(笑)。 180度しか私たちは繋がっている人がいない、半分しか行き来する人がいないから取り残されるよねって子どものころは思っていたんですよ。
隣の遠野市は日本の原風景と言われる場所だけれど、内陸で360度市町村と繋がっていて人が往来する、実はすごく文化度が高いところなんです。
三陸はアメリカとも繋がっている、向かい隣がアメリカというのもいいなと思うようになりました。そういう感覚でものを考えようって大人になって思うようになったんです。
─── 昨日「いのちをつなぐ未来館」に行ったのですが、津波で流された漂流物がハワイにたどり着いたと展示にありました。本当にアメリカと繋がっていますね。
「とうほくのこよみのよぶね」というアートを体感する
岩崎さん:「とうほくのこよみのよぶね」に携わってアートについても考えることがあって。
日比野先生が現場の人たちと作り続ける、思いのある人たちで作り続けているものが、結果として究極のアートですよね。アートってこういうことなんだな、この空間全部を先生はアートとして見てるんだろうなって。
─── そうですね。その物だけじゃなくてそこにいる人もですね。
岩崎さん:だから、アートって見るものだけではなくて、体感するものなんだと。
「とうほくのこよみのよぶね」というアートの中に私たち、そして行灯や花火をここで見ている人たちがいる。アートの中の一部分の、その空気の中のひとつとして、みんなが存在しているんですよね。
─── 多分それは見ている人だけじゃなくて、お空にいるみなさんもですね。
岩崎さん:そう!
空にいるなみさんも「とうほくのこよみのよぶね」の空間を宝のように思ってくれているような気がします。
「3.11」の船は見るものじゃなくて、一緒に乗るものなんですよね。
短い時間でしたが、私もすっかり岩崎さんのファンになりました。また会いに行きます。
「とうほくのこよみのよぶね」の活動はグリーフケア(悲嘆ケア)の一翼を担ってきたと言えるのではないかと思います。震災を風化させないための取り組みの一つとしても「とうほくのこよみのよぶね」が今後も続いていくことを願っています。
インタビュー・執筆・写真:小笠原ゆき
見出し写真:HomeCame 藤代誉士