拝啓、車椅子の俺へ 序
二〇二二年八月。全国的に猛暑が続き、ここ高知では熱中症警戒アラートが毎日発令されています。
連日気温三十度を超える暑さが続き、大気の状態は不安定で、時折ゲリラ豪雨がやって来たりします。
八月はお盆のある月です。
お盆は、祖先の霊を祀る一連の行事をいいます。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合したものなのです。
お墓参りをしてご先祖様に感謝を捧げることは日本人として当然の行いです。
今日生活できているのはご先祖様のおかげです。ありがとうございます。
手を合わすと、子供の頃からの記憶が走馬灯のように巡って、人生の無常感を切実に感じるものです。
夏草や 兵どもが 夢の跡(松尾芭蕉)
そうだ、過去の自分へ手紙を書こう。
病気になった前後から車椅子になった自分に向けて手紙を書こうと思う。
――拝啓、車椅子の俺へ
不運にも病気になって、その後遺症から下半身不随になり車椅子生活を余儀なくされた「俺」へ
タバコと酒とストレスが、病気を引き起こした犯人だとわかっていてもその生活に悔いなし
場面場面で一所懸命に頑張っていたことは、私(わたくし)が知っています。
記憶を辿る旅に出てみようと思います。
普通の会社員の「俺」が、不運にも髄膜炎を患い救急搬送されて二カ月入院し、その半年後に脊髄炎で入院することになったのは九年前のことでしたね。
はじめは、まさかこれほど長期に入院することになるとは思いもしなかったし、歩けなくなって車椅子での生活になろうとは全く思いもしなかったのです。しかし、思いもしなかったことが事実となって自分の身に降りかかり、普通の生活ができないとなったことをどうしても記録に残しておかなければならないと考えて、ここに記すのです。
他人から見た私は、自分が考えている私とは同じではない。
車椅子になった私は、不運ではあるが不幸ではない、と考えています。
肉体的に五体満足ではない訳だから出来ないことの方が多いかもしれない。
足に力が入らない、立てない、歩くことができない、一人ではトイレができない。
現在も一人では電車に乗れない、バスに乗れない、飛行機に乗れない、車の運転が出来ない、自転車に乗れない、風呂に浸かれない。
そういった不自由と共に生きていかなければならないのです。
それを他人は不幸というかもしれませんが、自分では決して不幸とは考えられないのです。
確かに不自由ではありますが、不幸ではないのです。
そのことをこれから記していきたいと思います。
三十歳の頃から自分の真の姿、本当の自分というものは、肉体ではなく心なのではないかと漠然と考えていました。
肉体が自分の主体であったとすれば、病気や怪我や体調不良の時には気分も心も落ち込まないといけないのでしょうが、一方で頑張れと励ます自分も確かにいる訳ですから、その頑張れと励ます自分が本当の自分なのかもしれない、と思っていました。
そして、心を鍛えることによって病気や怪我に打ち勝つことが出来るのだとも考えていたのです。肉体は鍛えれば強くはなるが、一旦怪我をすれば、心の持ちようで怪我の治りが違ってきたりすると言いいますから心を鍛えることが大事だということは分かります。
では、どうすれば心を鍛えることが出来るのか?具体的に何をどうすればいいのか?
こういったことを三十歳から考えていたのです。
それから二十年近く経って重い病気になった訳です。
病気になった後の考え方、心掛け、行動次第で、そこからの人生は光り輝くものにできるのではないか?そんなふうに考えているのです。
当時の状況を振り返りながら「俺」の心の動きを見ていきたいと思います。
そして、自分から自分へのメッセージを書きます。現在の自分である私(わたくし)が、当時の自分である「俺」に手紙を書くのです。
そうすることで、病気なったことの意義、下半身不随になったことの意義、車椅子になったことの意義を明らかにしていきたいと考えております。
さて、私が髄膜炎を患ったのは、二〇一三年四月三日のことです。早いもので、あれから九年が経ちます。
自宅近くの第一総合病院に救急搬送されたことは、想定外のことで思いも寄らないことでしたが、夢ではなく現実に起きた出来事なのでした。
前日、前々日と出社後に検温すると三十九度以上の熱が出ていましたので、2日とも早退させてもらいました。2日目には帰りに掛かり付け病院で診察してもらっています。インフルエンザの検査をしたようなしないような。薬はたくさん持ち帰ってましたね。
その後、自宅まで徒歩で帰ったのか、タクシーで帰ったのかは記憶がありません。
その3、4日前のこと。感覚がおかしいと感じたことがありました。
自分が発する声が、左耳にくぐもってよく聞きとれない感じがしてたのです。スッキリした明瞭感なく耳の奥で木霊している感じなのです。
それと、頭が重く感じて、普段なら決してしない頬杖ををして自分の頭を支えるようにしていましたね。
昼頃に病院から自宅アパートに帰って、和室のベッドに入って眠ったのでしょう。
気がついたのは、病院のベッドの上でした。
次の日に近くの第一総合病院に救急搬送されて、集中治療室のベッドで目が覚めたのです。
救急搬送されたことは、現実のことか夢の中の出来事かどっちなのかは自分では定かには確認できなかったのですが、和室のベッドから落ちてうつ伏せでいる私を発見してくれたのは会社の上司でした。意識のない状態で救急車に乗せられるとき泡を吹いていたと教えてくれたのは隣に住む大家さんでした。どちらもだいぶ後になってから知りました。
連絡なく出勤してこない「俺」を心配して、携帯電話に何度も連絡を入れても出ない「俺」を心配して自宅アパートに様子を見に来てくれた上司には感謝しております。いくら感謝しても感謝しきれません。命を助けてくれたのですから。以前に同じ会社で、連絡のつかない状態のまま男性社員が亡くなっていたという事例があったため、同様の場合には安否確認を徹底するよう通達されていたことも幸運でした。
なぜ髄膜炎になってしまったのでしょうか。
この問いに答えるように、当時を振り返ってみたいと思います。
重大な病気になったという事実は、これまでの誤った生活を改めろというメッセージなのかもしれません。
命と引き換えに下半身不随になったのです。下半身が動かない代わりに上半身は上等に機能しています。脳卒中の後遺症のように片手が不自由といったこともありませんので、何不自由なく両手が使えることは幸運なことです。
同じ病気になったとしても死に至る人もいれば、脳に障害が残る人もいます。
それを考えれば、下半身不随で車椅子になったとしても、それはむしろ幸運なことではないかとさえ思えるのです。確かに下半身が不随になったことで、今までに比べて不自由なことといったらありませんが、自分は生かされているという強い思いが湧いてきました。そうです、何かにお前は生きろと言われているかのように。
そうであるならむしろ自分は幸運をもっているのだと考えた方が良さそうです。そして、その時の心の動きを記すことが使命なのです。
その後、ステロイドの点滴治療及び人工透析、リハビリ等の献身的な治療をしてもらった「俺」は、二ヶ月後足元が覚束ないながらもようやく退院することができました。退院するにあたって、しっかり歩けるかどうかを検査して、多少ふらつきはあるものの大丈夫だろうとの医師の診断で退院することができたのでした。
退院後一ヶ月は自宅療養です。すぐにでも職場復帰したかったのですが、日常生活に慣れることが第一なので焦らずゆっくりと療養しなければなりません。また、入院前の生活リズムを取り戻さなければなりません。
元気に職場復帰して、会社に貢献したいと考えていました。病気になったことで、大きなことは出来ないですが、少しでも貢献できればいいと考えていたのです。
大事なことですが、外で歩くことを日課にしていました。体がうまく動かないのは、二ヶ月の入院で頭で考えることと体が一体になっていないからで、慣れれば一体になってうまくいくだろうと考えていたのです。
七月七日になってやっと職場に復帰できました。三ヶ月ぶりの職場復帰という訳です。
朝は歩いて通勤します。大体一時間かけてゆっくりと歩くのです。病気の前は、早足で歩いて40分で会社に到着していました。
焦らずゆっくりと歩くことが病気を治すことに繋がるのだと考えていたのです。
一ヶ月経ってもスムーズに歩ける状態にはほど遠い感じです。むしろ段々悪くなっていっているのではないかとさえ思えるのです。出勤前にはシャワー浴をして最後に水を張った浴槽に浸かるのですが、あがる段になって脚が上手く出ないのです。トイレで用を足した後、立ち上がるのに何かを持たないと上手く立ち上がれないのです。歩きも脚が上がらずに革靴の爪先をズって傷つけてしまいました。このように、何かおかしいのです。退院したのだから良くならないといけないのです。普通は良くなるのでしょう。再発?まさか。
朝シャワーに時に臍のあたりをつまんでみても痛くない。力を入れても痛くないし、自分の体じゃないみたい。
一体どうしてしまったんだ?
当時住んでいたアパートの自室で転倒するようになりました。
最初は、洗濯物を部屋干しするのに、ハンガーに掛けようと腕を伸ばした時です。膝から崩れ落ちるとはこのことでしょう。操り人形の糸が切れた感じで崩れ落ちました。
次は、ストレッチしようと足の甲をつかんで尻にくっつけよう、腿を伸ばそうとして力を入れた瞬間、またしても糸が切れたように崩れ落ちました。
その次は、カレーを食べようと高い位置(顔の高さくらい)にある炊飯器からご飯を皿に盛っていて、背中の痛みとともに崩れ落ち、顔に頭に炊きたてご飯を被ってしまったのです。
最後には、自宅ではなく会社から帰宅途中のこと。最寄駅北側のディスカウントストアに寄った帰りに、出口を出て歩道から20cm下の街路にトンと足をついた瞬間、またしても糸が切れた状態になり膝から崩れ落ちたのです。今度は室内でなく屋外で人通りもあります。レンガのインターロッキングを敷きつめた道路の上に膝から崩れ落ち、うつ伏せに倒れたのです。
何とか自力で起き上がりタクシー乗り場までやっとのことでフラフラしながら歩いて行きました。ドキドキがおさまりません。自分でも思いもかけないことが我が身に起きているのではないか、という気がするのです。それもとんでもないことが。
杞憂で終わればいいのですが、こんな時は往々にして的中してしまう。
次の日になって第一総合病院に行き、診察してもらったのです。
その日は問診及び触診をして、別の日にMRI検査をした結果、丁度みぞおちの位置に脊髄の炎症があることが判明しました。
歩きづらさや転倒の原因は、脊髄の炎症にあったことが分かったのです。
病気の原因が分かれば、後は治療をすれば治るのだ、と考えるのは普通です。
脊髄炎と分かったことで、半分以上治癒した思いでした。診ていただいた先生も、服用しているステロイドの量を増やしましょう、そうすれば2週間後にはまた元のようにしっかり歩けるようになりますよ、と明るくはっきり言ってくれたので、空が明るく輝いて見えたのを覚えています。
しかし、良くなって歩けるようになるはずの身体は、一向に良くなる兆しすらありません。
むしろ悪くなっていっているのではないかとすら思えてきます。
あるゴミ出しの朝のこと。自宅アパートの前が駐車場で、その端にゴミ置き場があります。15mくらいです。ゴミを置いた帰りに転倒してしまいました。今度は起き上がれません。アスファルトの地面に座った状態で、前を行く通勤の人達を見つめていました。そのうち一人の女性がこちらに向かってきてくれ抱き起こしてくれました。同時にアパートの大家の奥さんもゴミ出しに出てきて「俺」を発見して、二人で抱き起こしてくれたのです。
そうすると歩くことが怖くなってきます。ドキドキ心臓が高鳴ってくるのです。それは身の危険を教えてくれているかのようでした。
結局、自宅療養ですら危険なため、入院して治療してもらうことになったのです。
二〇一三年十一月二十一日に脊髄炎のため、第一総合病院に入院します。
この日のことは忘れません。
「俺」の入院生活の始まりの日です。
病室は、個室に入りました。部屋代は高いのですが、大部屋と比べたら他人に気を遣わなくてすむこと、テレビはイヤホンしなくていいこと、消灯過ぎてもテレビが見えること等から高くても個室だと考えてのことでした。
治療法は、ステロイドの(点滴による)大量投与です。1週間続きます。
主治医のY先生は毎日様子を見に来てくれます。
急性期の病院は、入院期間が限定されていて「俺」の場合だと2カ月でどこか違う病院に転院しなければならないことになっていたのです。
全然治ってないのに、歩けるようになっていないのに、制度だから、決まりだからとさも追い出すように転院しなければならないのでした。
主治医のY先生には、「先生、俺のこと見捨てないで下さい。途中で放り投げないで下さい」とお願いしたのですが、転院しなければならなかったのです。
脚は、痙性と言ってギューッと締めつけられる感じの痙攣が起きて、その都度太腿が焼けつくように熱くなっていくのです。
次の病院は、N市にある「湾岸リハ病院」でした。
脊髄の炎症が治ったわけでもないのに、リハビリなんて本末転倒じゃないのかと思っていました。本当だったら脊髄の炎症が治ってからリハビリのステップに移るのが普通ではないのか?
当時の「俺」は自分の病気に関して無知で、治療は医師まかせで、それが良いものかそうでないのかも分かってなかったなぁ。
第一総合病院に入院当初に撮影したMRI画像とリハビリ病院に転院する直前に撮影した患部の画像では、入院して加療しているのだからそれが効果があって、脊髄の炎症部分は小さくなって当然のことと考えられる訳だが、どうしたことか逆に大きくなっていて、それに対して医師の、病院の明確な説明はなかったよね。その時の「俺」も鋭く突っ込んだり詰めたりはしなかったからどうしようもないが、今思い返すと「何で炎症が大きくなっているのか」「炎症が大きくなっているのは治療の効果がないということではないか」とは主張するべきだった。
変に聞き分けのいい患者を演じていたのか、変な患者と見做されるのを嫌がってのことか、何かを変えることを面倒くさがっていたのか口をつぐんだままだった。
脊髄に炎症があるままリハビリ病院に転院してもトレーニングにならないよね。
平行棒につかまって車椅子から立ち上がる動作。
椅子から立ち上がるのだから脚の力があれば簡単に立ち上がれるの。
最初は上手く出来ていたのよ。脚で踏ん張れていたから。
それが徐々に出来なくなっていったのですよ。
リハビリ用ベッドに横になって膝を立てて、足を伸ばして、足首を上げて、蹴ってと言われてやろうともできない。脳で指令を出してもそれが伝わらないのね。
動かない脚を動かそうと動け動けと念じても動くこともなく、徒労感に苛まれてしまう。
寝返りを打つ動作。健常なら簡単よ。
リハビリ用ベッドに横になって仰向けでいて体全体を横に向けるのです。これが出来なくなる。力が入らないから力の入れ方が分からなくなるから寝返りを打てない。何回やっても出来ないのですよ。
ああ、上半身の力もなくなってしまったのか。
また特に、排尿排便問題は、切実な問題だった。
これをうまく独力でやれないと会社に復帰することは困難ですから。
入院時も施設入所時も「俺」の頭を悩ます問題でした。
まず排尿は、最初の頃は感覚があったのでトイレに行ってしてたものが、行けなくなって尿瓶になり、次には尿器を宛がうようになりました。褥瘡ができてからは導尿バルーンバッグといってペニスの先から膀胱に管を入れバルーンを水で膨らませてストッパーとし常時その管を留置する方式で排尿していました。で、蓄尿バッグに尿が溜まれば棄てるのです。
排便に関しては、医師や看護師がすぐコントロールしようとするんだよね。
便が三日出てないと一大事で、下剤を飲みましょう、便を軟らかくする薬を飲みましょうと言ってくる。
こっちは分からないからそうなのかなそうした方がいいのかなと考えるしかなくなって下剤を飲んだわけよね。
下剤飲んでも出ないから今度は浣腸しましょうということになってやった訳です。
それから排便には浣腸するようになって、週三日月水金に浣腸して便出しをするようになったのです。
それでも出たり出なかったり、予定外に出たりとうまくコントロールできません。
医師からは人工肛門を付けてはどうかと提案されたのですが、「俺」の胃腸に異常はなく排便コントロールのために人工肛門を付ける手術の提案をしてくる医師の考えには、首を縦に振ることはできませんでした。
大きな病院、総合病院に行くと玄関あたりに車椅子が並んでいる光景を目にすることがあるでしょう。
病院が舞台の映画やドラマには車椅子が出てきます。
それほどに医療現場と車椅子は密接に結びついていて、そこに車椅子があっても車椅子に乗っている人があっても全く驚きません。
高齢者施設、障害者施設でも車椅子は移動手段として不可欠な必需品、不自由な足の代替品としてなくてはならないものとして認知されています。
一方、役場、市役所、区役所、駅、電車のホーム、バスターミナル等ではあまり見かけません。
街中や商店街の中、ショッピングセンターの中でもあまり見かけません。
バリアフリー化された建物、構内ではあっても障害者が利用しづらいものがあるのでしょうか。
日常の場面では見かけない車椅子。
将来は、日常のどんな場面に車椅子があっても調和しているような世の中が望ましいと思う。
車椅子は、自走式と介助式に分けられ、自走式は手動式と電動式に分かれます。
病気か事故、脳の病気や脊髄の病気または全身の病気等か交通事故や転落事故による頸椎損傷、脊髄損傷、その他の原因により足腰が立たなくなって歩行困難なために車椅子を利用するので、体の状態により利用する車椅子も異なってきます。
脚で立てる人でも長時間立てないからと移動を車椅子でする人もいます。
腕に力が入らないから電動車椅子に乗っている人もいます。
体の状態は十人十色であるようにその人に合った車椅子も十人十色であるべきで、無理のない姿勢を維持できるような車椅子が望ましいのです。
私の持っている車椅子は、自走式のもので手動のオーソドックスタイプです。重さは、19kg。
二○一六年十一月に購入しているのでほとんど丸6年になります。
千葉のリハビリ病院に入院しているときに何台も試乗して選びました。スエーデン製です。
これにエアークッションを付けての価格は、25万円。
愛着もわいてきて、まさに愛車という感じになってきました。
昔、八代英太という司会者がいて、テレビに出てかなり有名だったのですが、歌謡ショーの最中にせり舞台の穴(奈落)に転落、脊髄損傷で下半身不随となったのでした。
車椅子となった訳ですが、テレビの司会に復帰した後、国会議員となり国政に進出したのです。
車椅子の政治家といえば八代英太というほどインパクトがありました。
現在の有名人だと、
車椅子テニスの国枝慎吾、上地結衣
車椅子バスケの香西宏昭、鳥海連志(れんし)
車椅子ラグビーの池透暢(ゆきのぶ)、池崎大輔
日本を代表するスポーツ選手の彼らが頑張って活躍している姿は「俺」を熱く励ましてくれます。
一球入魂、一所懸命、諦めない姿、真摯に競技に向かう姿を目の当たりにすると背中に電気が走るように感化されてしまうのです。
(ここでは、敬称を省略しています)
また、ユーチューブの世界では、渋谷真子さん、中嶋涼子さん、中村珍晴さんらがいろんな情報を発信してくれています。
車椅子ユーザーの赤裸々な日常を教えてくれる生きた教材です。
私が車椅子になったことには何か意義があるはずです。
髄膜炎になった当時の「俺」は、早く病気を治して会社に復帰したいとばかり考えていて、事実二ヶ月の入院で済んだことを幸運であると考え、これから徐々に体の調子を整えていこうと目論んでいたのでした。
しかし、そうした思いとは裏腹に「俺」の体の中では思いも寄らないことが進行していたのでした。
病気になったことは確かに不運なことだけど、死にはしなかった。
下半身不随にはなったけれど、左半身麻痺や右半身麻痺ではなく、両手が不自由なく使えること、脳に支障がないことは運が良かったと思います。
両親に妹に親戚にも廻りの方々にも心配をかけ迷惑をかけたと思う。
その分、人の温かさ、温もり、会社の有り難さを病気になってはじめて気付くことができたのは良かった。
また、どんなに希望がないように見えるところでも、夜が明けないときはないように、雨が止まないことがないように、必ず光は見えてくると信じて頑張るのだ。
心の持ち方次第で景色は変わるのだ。
自分のことは誉めたりしないが、頑張っていた自分には、イイね!と誉めてやりたい。
当時の「俺」の心境を綴りながら、病気になったことの意義、車椅子になったことの意義を書いていきたいと考えています。
→つづく