拝啓、車椅子の俺へ 第一章 その壱
四万十川は、全長196kmある四国最長の河川だ。
高知県と愛媛県の県境近くに端を発した源流は、四万十町を南に進む。
やがて線路とぶつかる手前で西に進路を変え紆余曲折、蛇行を繰り返しながら更に西へ西へ。
途中から流れを南に転じて海に流れ込むのである。
流域には工場がないから水が汚れていない。
「日本最後の清流」として全国に知れ渡っている。
その四万十川中流域の支流のひとつを遡ること約8キロ、集会所のカーブを曲がると、川向こうの棚田の上に建物が数軒鎮座しているのが見える。実家だ。
実家は、隣が見えない程、山に囲まれた場所で、先祖代々林業と米作りをしてきた。
谷の上流に所有する山林があり、主に桧と杉を伐採しては出荷していたのである。
田圃は、家の下方に石垣の上に畦がある棚田(段々畑ならぬ段々田圃)として広がっている。
田植えになると親戚総出で手植えしていた光景を思い出す。
田んぼの水は谷から溝伝いに引き込んだものだ。
谷に人家はない。
自然の恵み。
山では、山芋(自然薯)、椎茸、筍、イタドリ、たらの芽、ゼンマイ、ワラビ、ヤマモモ、ウド、アケビ。
川では、うなぎ、鮎、アメゴ、イダ(ウグイ)。
庭では、柿、ブシュカン(酢みかん)。
畑では、お茶、スモモ、梅、梨、こんにゃく芋、芋、じゃがいも、リュウキュウ、トマト、キュウリ、ナス、玉ねぎ、にんにく。
これらの恩恵に浴することを当たり前のように考えていましたが、後に都会に出てはじめて、全てお金を出さないと得ることができないのだと知りました。
私は、東京オリンピックの年に生まれました。
両親と祖父、私、3つ下の妹の5人家族で生活していました。
坂の上下に家があり、上の家と下の家を行ったり来たりで生活するのです。
上の家で食事をしテレビを観て、下の家で寝るのです。
風呂とトイレは下にあります。
母屋で食事をして、離れで寝るという感じです。
水道はなく、山の湧水から竹の樋(とい)を連ねて台所まで引っ張ってきてました。流し素麺の台を長くした感じですね。
台所のコンクリ水槽に流し込んでました。
その内に親父が谷から200m程ビニルパイプで水を引き、水道として使い出しました。
我が家に公共の水道が引かれるのはずっと後になってからのことです。
食卓は囲炉裏に櫓(やぐら)を組んだ仕様で、上に布団をかぶせ天板を置いてました。
祖父が上座に座り、脇に父親、私、その脇は妹。母親は端の上がり框で給仕をする、そんな座席でした。
私一人木製の小さな椅子に腰掛けて食事してました。
食材は、もっぱら移動スーパーで買います。
「テーさん」と「志和じい」2台が日を違えて来てくれます。スピーカーで演歌を流しながら車を走らせます。
「テーさん」号は、ラーメン、パン、お菓子、日用品。
「志和じい」号は、鮮魚。おかげで山奥でも新鮮な鰹が食べられました。
小学校は、家から川沿いに3km下った場所にありました。
全校児童約30人、同級生7人の小さな僻地の小学校です。
小さな頃から扁桃腺と気管支が弱くよく風邪をひいては高熱を出したものでした。
1年の時に当時の校長先生からキャッチボールしようと誘われて先生の投げるボールをグローブでキャッチしたこと今でも憶えています。
それがはじめてのキャッチボールです。
テレビでは「巨人の星」を放送しており、野球が身近になってきていたのでした。
選抜高校野球では、高知高校が決勝で原辰徳のいる東海大相模高校に延長で勝って優勝するという話題もあり、野球部に入って野球をやりたいと思うようになっていました。
クラブ活動もない小学校ではどういう練習をしたらいいか全く分かっていませんでした。
漠然とではありますが、中学校では野球部に入って野球をやりたいなと考えていました。
中学校は、同じ町内の6つの中学校が統合した学校で、校区が広いために遠距離の生徒は寮に入りました。
全校生徒約700人の1割、70人が寮で生活するのです。私もその一人でした。
この寮生活が私にとって大きな意味を持つものとなったのでした。
寮室は4人部屋で、二段ベッドに机、タンスが備え付けてある。
最初の室は3人が2年生で、顔も見たことがありません。
緊張している初っ端に緊張をほぐすためか紹介を兼ねてか、トランプやらないかと声をかけてくれ話をするキッカケを作ってくれました。
この3人は非常に優秀で、普段から頑張って勉強する姿勢に私は強く影響され、自然と勉強するようになっていきました。
この寮では毎晩2時間の学習時間が義務づけられていて、その時間には机に向かっていなければなりません。
もっと勉強したい寮生は、申し出れば勉強できる。
室の2年生達も大抵勉強してました。
クラブ活動はソフトボール部に入部しました。
第一希望の野球部は練習が厳しい。顧問の先生が厳しいらしい。
体力の無さを自覚していた自分は、練習に付いていけるかどうか自信がありませんでした。
体力が人並みにあったなら勿論野球部を選んだでしょう。
最初の頃は、体調と相談しながら練習に行ったり行かなかったりでブラブラしてました。
一年中風邪をひいてるような感じで、咳はコンコン痰は引っ切りなしで気管から出てくるのです。
少し走るだけでゼイゼイと息苦しくなって来ますから、長い距離は走れませんでした。
どいういうことか二学期から学年キャプテンをやることになって、それからは積極的に練習に参加するようになりました。
体力ない、打てない、守れない、投げられないと4重苦で、普通だったら辞めているところが、またどいう訳かピッチャーをやるように指導されたため、ピッチャー練習に専念することで続けられました。
ソフト部には指導してくれる監督やコーチ、先輩はおらず、全て自分で、自己流で練習してました。
上手くなりたいと技術書を買って読んだり、「月刊ソフトボール」の分解写真付き解説を読んで試したりしてました。
→つづく