拝啓、車椅子の俺へ 第一章 その四
同級生は約240人。1クラス40人で6クラスある。同級生7人の僻地の小学校とは全く違う。当初はその人数に圧倒され気後れしたものだ。
自分は引っ込み思案でおとなしく、話し下手で不器用。体は小さく運動センスなし、体力なし。
喋りは苦手で、気軽に話しかけることなどできなかった。
背が高いわけでなし、顔がいいわけでもない、頭がいいと思ったこともなし。
中1のはじめての実力テストは、中くらいの成績。目立たない普通の生徒だ。
授業はほとんど頭に入らず先生の言っていることすら理解できなかった。
そんな中で理解できたのが、数学と英語。
1年の時、1学期の期末テストを病欠してしまい(肺炎になりかけて一週間入院)、一人で追試を受けました。
それでも期末考課では、数学と英語が「5」、他は「3」。
数学の先生は、期末テスト受けれんがじゃもの「2」か「3」を付けようと思いよったら追試で満点近い点ながじゃき「5」にしたがよ、と言ってくれた。追試の時も頭がボーッとしており満足な解答が出来なかったのに数学の先生からは良くできたと褒められたのだ。
この先生からは勉強の基本姿勢を教えて貰った。
「ちょっと考えて解らんからいうて先生教えてと聞きに来るがじゃないぜよ。考えて考えて、一日考えて、二日考えてそれでも解らんかったら、はじめて聞きに来なさいや」
英語は、中学からの教科ということと小学校でローマ字をやったおかげでにスンナリと理解できた。
この2教科は、自分独自の繰り返しの反復学習が功を奏し、3年の最後まで成績が落ちたことがない。
他の教科は振るわない。丸暗記が嫌だった。
最初はクラスでも中くらいの成績だったものが段々と上の方に位置するようになり、全体でも上位になっていった。
3年になると成績上位者の顔ぶれは決まっておりその中にも顔を出すようになっていきます。
そうやって努力していても一番じゃなかった。
というより一番を目指していた訳ではないし、誰かに負けたくないと考えたこともなかった。
自分が出来る努力を懸命にするだけだと考えていましたから。
怠ける自分に打ち克つことが目標だったし、その結果の順位だったのです。
しかし、自分の努力など独り善がりのもので、設計図もなしに基礎も土台も作らずに家を築こうとしているのだから、不安定で上手くいくはずがありません。
基礎、基本をみっちり叩き込む勉強をするべきだったかなと反省しています。
ある先生からは、君は基礎が出来ていないのに応用をやりたがる、と言われたことがありますが本当にそうでした。
そんな俺が3年の時に生徒会長になってしまった。
会長選挙に推薦を受けて臨み、立ち会い演説会で対抗馬の前任者が演説中「あっ」と言った途端に彼の鼻から鼻水がタラーリ垂れて、体育館に集まっていた全校生徒に見られてしまった。ザワつきが止まったからみんなの目が釘づけになったのでしょう。
その鼻水事件のおかげで生徒会長になれました。
生徒会の運営に知識も経験もない俺が青天の霹靂で生徒会長になってしまった。どうすりゃいいんだ、何すりゃいいんだと不安しかない。
幸いなことにアドバイス(俺が頼りないから指導してくれたのだろう)をしてくれる女子がいて助かった。
それこそ手取り足取り、いろはのいから、いろんなことを教えてくれました。生徒会やりたいんだろうなぁ、という女子。
「私は生徒会長じゃないき、自分でやろうにもやれんがよ。生徒会長になった人にできるだけ協力するがよ」と、助かりました。
毎週土曜日の授業終わりに「全校集会」があって、その司会が俺の役目。体育館の壇上に上がり、端に立ってマイクで司会をします。
他には、予算審議の会議をしたり、生徒集会の定期大会を開催したり、体育祭の企画・運営・実施等、拙いなりに不器用なりにも懸命に取り組み、務めを全うできたとは思うのです。
寮では、寮長に選出されていました。
誰を寮長にするかを決める寮会の時に風邪をひいて寝込んでいたら、寮長に選ばれましたと報された。
ソフトボール部ではキャプテンを務めていたので、生徒会長、寮長、ソフト部キャプテンの3役を同時に務めていたのでした。
部活、寮、学業において、僻地小学校出身の俺が大人数に埋没することなく、それぞれの場で存在を認められ役割を与えられたことは望外なことでとても嬉しく誇らしく、やれば出来るのだという自信になったし、今後の励みにもなりました。
そんな俺は、高校進学は当然のことと考えていました。
クラスのみんなも進学するのだろうと思っていたのですが、進学せずに就職するという女子がいて驚きました。
家庭の事情で就職しなければならないというのです。それまでその女子とは普通に話していて普通に笑顔を返してくれていたので、あの笑顔の下には家庭の事情を抱えていたことは全く想像することができませんでした。
体育祭のフォークダンスでペアになってオクラホマ・ミキサーを踊ったことが思い出されます。
はじめて握った彼女の掌、大きくて温かくて、包み込んでくれるような母性を感じました。
「私は就職するけど、受験頑張ってね」
はは、かなわないなあ…。
志望校は、私立の土佐高校が一番。
次が県立の高知追手前高校。
県立高校の受験では、第一志望から第二志望まで願書に記入できることになっていたのですが、追手前高校しか眼中にないので、第二志望はありません、書きませんからと担任の先生にお願いしたら、先生はそりゃいかんぞ、何があるか分からんから第二志望は書くだけ書いておこうと言ってくれたのですが、それを頑なに拒否して、願書には第一志望の追手前高校しか書かなかった。
当時は学区制があって、市内だと競争倍率1倍台、郡部だと募集が30人に対し応募90人の倍率3倍の狭き門でした。
それも承知の上で、追手前高校一本にして、退路を断ちました。
―― 現在でもこの決断のことを思い出します。今でも同じことができるだろうか。
年明け2月になると私立高校、3月は公立高校の入試がやってきます。
まず土佐高校の入試では、前日に父親と市内の旅館に泊まり込み、万全を期したつもりでした。
最初の数学の試験で、終わりました。
いやー全然分からない。どういう問題でどう解いて何を書いたかも全く頭に残っていない。
面接でも何を聞かれたか、それに対しどう答えたかも記憶にありません。入れ込みすぎて肩に力が入り過ぎたか。
案の定、不合格でした。
次の追手前高校の試験まで約1ヶ月。
ボケーッと焦点の定まらない毎日を過ごしていて、教科書、ノート、参考書も開かなかった。
やっと参考書、要点ポイント集を開いて復習しだしたのが3日前。集中して記憶すれば何とかなると自分を信じていたのです。
試験会場では偶然にも顔見知りが同じ教室内にいて試験開始まで喋ることができ、休み時間も喋ったりしてリラックスして肩の力が抜けました。
そのおかげで、答が降りて来たように問題が解けていきます。
翌日の朝刊に問題解答が掲載されたので、自分で採点してみると正解率9割以上あったので、ああ合格だな、と安堵したのを憶えています。
合格発表は、何日か後の深夜のテレビ放送が速報となって一番早い。
夜遅くのこと、母親と一緒にテレビを観ていましたら名前が出てきて読み上げられましたから、やっぱり合格したと言うホッとした気持ち。
すると、近くに住む母親の妹であるおばちゃんから電話が掛かってきましたね。
おめでとう、と祝電です。今でもその時の情景が浮かびます。
その後、御祝いに万年筆をいただきました。
おばちゃん、ありがとうございました。
あの時のご厚情は忘れません。
受験は縁だといいますし、実際そうなんだろうと思います。
いくら実力があっても当日の体調が悪くて不合格となったり、実力がなくても前日たまたま見返した参考書のところが問題に出たおかげで合格できたり。
土佐高校には縁がなかったが、追手前高校には縁があったということなのでしょう。
頭の良くない自分が不断の努力によって追手前高校に合格できたことは、何かの巡り合わせだったかもしれません。
努力する姿を見て、幸運の女神が微笑んでくれたのでしょう。
さあ、4月から高校生です。
→つづく