もっともっと自分を好きになりたい
わたしは自分が好きだ。
多分100%近く、好きだ。
それでもたま〜に自信が無くなったり
100%信用してあげられなかったりする時が来る。
そういう時は決まって、人に対してもいつもよりとげとげしてしまう。というか気持ちが乗らなくてごめんなさいね……ズーン……状態になる。
この間もそんな気持ちになっていた。
そんな時に弟が小林正観さんの新しい本を貸してくれた。
(別に弟はその状況に気付いているわけではない。でもありがとう)
その本は『幸せが150%になる不思議な話』。
『幸せが150%になる不思議な話』
この本にはこう書いてあった。
その50%をぴょんと上げる簡単な方法がトイレ掃除なのだそうだ。
それも手首まで入れてゴシゴシと磨く方法で、自分の家のトイレだけではなく公共の場や他人が使ったトイレも掃除すること。
わたしは、うげぇ〜っと思った。
トイレを素手で洗う
うげぇ〜そんなことできないぃ、と思った。
正観さんの本は、事実が淡々と書かれている。
正観さんは唯物論者だから、彼自身もたくさんの事象を集めて、研究した結果、確率論的に「どうもそうらしい」ということが書かれている。だからとても信用できるし、今までも彼の考え方に何度も救われてきた。そして書かれていることを自分のできる限り実践してきたからこそ今の幸せな状態にたどり着けているのだと思っている。だからやった方がいいことはわかる。
わかるのだけど…!!
家はまだしも外は無理だ。
流石に駅とかのトイレは汚いところが多いし、それを想像したらやっぱり無理やで〜〜と思う。ましてや家のトイレも手で洗ったことないのに…。
でもなんか、もっともっと自分を好きになりたいな、もっともっと人に優しくなりたいなと思っていたタイミングでこれを見るって、すごい意味があるよな…。できる限りのことはしてるけど、唯一くらいできていないのってこれじゃん…。トイレ掃除はしているけど流石に素手はやったことないよ…。
とか思っていると、急にトイレに行きたくなった。
「あぁ、これはすることになるな」という予感がした。
「こりゃする運命だな」と。
用を足して流した後、わたしはトイレクイックルを使っていつもの手順でトイレ掃除をした。そしてついにきた。手首を突っ込むか突っ込まないかの選択の時。
嫌だとかじゃなくて、このタイミングだから、やるかやらないかだな。とりあえず家のトイレだし。と思ってズボッとさした。
さして、ゴシゴシ洗った。
まだ自我が残っているわたしは、奥の奥までは行けなかったけど、できる限りゴシゴシ洗った。
一気に50%というほどではなかったけど、2%くらい上乗せで自分のことを好きになった気がした。
わたしにはまだ自我が残っていて伸び代があるぞ
そんなこんなで、やり切ることはできなかったけど、やってみることはできた。やっぱり想像していたよりも嫌じゃないし、終わった後は清々しくて、なぜか優しい気持ちになった。気がした。
これからもたくさんのトイレを使うであろう。
でも自分の家のトイレだって今日と同じように手首まで突っ込んでゴシゴシできるかどうか、明日にならないとわからない。一度できたからできるようになるものでもなさそうだ。ましてや外のトイレなんて…状況にもよるけど今のところできる気がしない。
というわけで私にはまだまだ削ぎ落とすことができる「自我」がたくさん残っているらしい。なんか最近自分を好きになって自信を持ちすぎてもはや自我なんてないんじゃないかと思っていたけど、ありまくっていた。まだまだまだまだ残っていた。
と考えると、私はもっともっと自由に、ふわふわと、流れるように生きていけるということだ。自我がどんどん無くなって、全てのことを自分の好き嫌い無しに受け入れられるようになる素質があるということだし、それは今よりもっと幸せになれるということだ。
そう考えると、まじで伸び代しかないということで、めちゃめちゃ嬉しくなった。
今朝トイレ掃除をした後弟に
「まだ自我ありまくりだったわ…」とラインをしたら
「のんびりいこうじゃないか」というスタンプが送られてきた。
そうですね。
焦らず急がずゆったりと、削ぎ落としていきます。
私の残りの自我たちを。